ハイパーリンクと共感
(この文章は私が、3年前(97年頃)に書いたものです)
今の時代、どうやら物事はハイパーリンクで
作られているらしい。確かに、ホームページも
URLを見ると分かるように、その頭には
http(ハイパーテキストトランスファープロトコルの略)
って書いてあるように、明らかに、ハイパーテキストを
リンクさせたハイパーリンクの世界だ。
このハイパーテキストの特徴の一つは、同じデーターベースから、
個々人が好きなように、物語を組み合わせて作ることが出来る。
すなわち、みんなが自分だけの物語を読める(作れる)と
いうことだ。
この思想の面白いところは、マスなメディアと違い、
個人個人が、勝手にしそうや意見を形成できるところだ。
そしてこの思想を持ってして、多くの識者が、
マスメディアの終わりを告げている。
(私もある意味ではその通りだとおもう)
しかし、本当にその様になるのだろうか?
多くの人が、各所から容易に情報を集め編集し、
意味付けを行い、主体的に判断、行動する社会。
ある意味では、理想的な社会だろう。
でも、現実にそうなるであろうか?
やはりこれは「否」だとおもう。一つは、
多くの人が、その様に情報を編集する術と
意味を持たないからだ。にもかかわらず、
莫大な労働力をもってして、わざわざ、編集する物好きが
いるだろうか?
その結果はすでに表れている。
インターネットの世界でのプッシュ技術による、
編集済みの情報の提供だ。これでは、マスと変わらず、
httpという冠詞がなくというものだろう。
多くの人がこれを使う理由に「楽だから」
ということを挙げている。
もう一つ大きな理由がある。ハイパーリンクの世界では
共感を得ることが出来ないからではないだろうか?
共感を得るためには、ある程度同じように編集された情報と、
同じような意味付けがなければ、「共」に「感」じることが、
出来ないのではないだろうか。
ハイパーリンクの世界では、個人がみんな違う意味付けを行うことに
特徴があり、マス的な共同体を否定しているところがある。
みんなが違う意味付けをされた世界に住むことになる。
そこに果たして共感が生まれるであろうか?
おそらく、情報のほとんどがハイパーリンクとなる世界では、 多くの人が、今の都会以上に、隣のことに関心を持たない、 孤独な世界になるであろう。 はたして、そんな孤独にどれだけの人たちが 耐えれるであろうか。結局のところ、ハイパーリンクの世界は、 マスメディアの世界を倒すことは不可能であろう。
いまだに多くの人は、ブームを追い、同じ物を求める傾向があるのだから。 それは本質的にみんな共感を求めているからであろう。 それはハイパーリンクのメディアであるはずのホームページでも、 同じである。ほとんどのページが自らのアンサンブルを 作成することよりも共感を求める物が大半である。 結局のところ、新しい技術が可能性を示したところで、 共感を求めてしまうのが人間なのだろうか。