のらの成り立ち~その6:学生期前編~

さて、ネタが切れると書くようにしているコーナーですが、のらをあまりにしないので、ネタが切れっぱなしで書くほうが追いつきません。それはさておき。

で、無事大学生になるわけですが、住まいを決めるのに大学生協様のお世話になりました。その時窓口で対応してくれたあんちゃんが、「あー、徒歩で20分ぐらいね。大体、うんキロだから」とコンパスでその直線距離上にある下宿を紹介してくれました。なんという適当っぷり。でも、このアンちゃんも後には一緒に活動する羽目になるとは思いませんでした。
で、入った下宿がハイツ松浦というところ。全く持って、へんな多士済々の下宿でした。ある意味この下宿での生活そのものも漫画になりそうです。ちなみに、大物が出てきても不思議じゃないような環境でした。すでに頭角を現しているやつもいます。ともかく面白い日常生活でした。おかげさまで、この2年間、まともに睡眠が取れた記憶はありません。
で、バイト先は親戚が経営する大型家電量販店のFC店。これは4年間お世話になりました。とはいえ今思うと、労基法違反でした(笑)。でも、OA機器のセットアップとかコンサルをやらされたり、DBシステムをいじらされたり、広告を作らされたり、やくざのお宅に配送させられたりと、色々勉強になりました。あ、普通のお店の売り子とかもしましたですよ。はい。
で、本業の学業ですが、今までが超おバカさん学校だったおかげで、学ぶこと全てが新鮮でたのしかったのです。とにかく、教養課程2年間は鬼のように単位を取りました。無茶無茶おもろかったので死ぬほど勉強しました。気がつけば、量子力学関係は人一倍できるようになっていたような気がします。レポートが流出して、皆さんの単位獲得に貢献していたように思います。おかげで、クラスの飲み会はただでした。とにもかくにも、演習と実験は取ること可能なものはほぼ全て取っていました。雑学王みたいな妙な知識が多いのはこの頃のせいです。
こんな生活に暗雲を立ちこさせたのが、生協様でございました。高校の生徒会で合議制とか事業を取り回すことはこりごりだったので、上手く逃げおおせていたつもりだったのですが、当時の北海道大学の制度のせいで、3年時以降に学ぶ学部学科が未定なのです。学部学科の選択の参考にと言うことで、学部探検なるもようしものがあって、それの打合せに行ったら、それは生協様主催で、赤い組織特有の堂々巡り反省スタイルで、事業が進まなかったわけです。ぶちぎれて適当に仕切ったら、それが運のつき。あれよあれよと、新入生歓迎の事業の一部をやらされ、理事になってしまい、気がつけば湾岸戦争のときに渋谷のど真ん中の街宣カーの上で、アメリカを非難する演説をぶつまでになってしまっておりました。全くもって、思想信条にそぐわないことをやっておりました。
ちなみに、理事会では資本主義と受益者負担を訴え続け思いっきり野党でした(笑)
まぁ、人間やれば出来るってことと、こういう合議とか事業をまわすって事が、案外と自分の能力で向いているという変なことを理解してしまったのであります。

まぁ、そんなこんなで、教養課程を終えて、専門課程に突入していくのであります。今度こそ、研究者になることを目指し生きていくのだと、心に近い、第一志望の理学部化学科というのに進学しました