のらの成り立ち~その4:生徒期前編~

そのまま旭川で中学生になったわけです。義務教育なので当然なのですが。

その頃、勉強はぜんぜん出来ませんでした。小学校のときかろうじて出来た理科も、物理ジャンルなど数学的な基礎を多少なりとも必要とするものは壊滅的になりました。だって、一次方程式も満足に解けない有様でしたし。英語にいたっては意味不明です。でも、1年生の頃は結構生き生きとしていましたね。
まず、通学路に千代田電機というお店があって、そこに当時の流行のパソコンってのが幾つも展示してあって自由に触れました。で、当時、著作権意識が低い社会だったので、パソコンソフトのレンタルってのも結構はやってました。猛烈に、友達と少ないこずかいを出し合って、レンタルしてダビングして、その千代田電機に持ち込んで、延々と遊んでました。
あとは、順当にSEGAで遊び倒してゲームマニアの路線まっしぐらで、加えて、深川の頃に覚えたゲームセンターのゲームで遊ぶ癖も抜けず、よく補導員の目を盗んで、地域のゲームセンターにもよく出没しました。ゲームによっては1コインあれば延々と遊べるようになったのもこの頃でしょうか。

あと、この頃特筆すべきは学校祭で、学級新聞を作って優勝した体験でしょうか。なぜか、うちのクラスの女の先生(日暮先生っていったかな?)がそういうことに指導力を発揮して、新聞を作るノウハウががっちり身につきました。小6から続く、学級新聞コンテスト連勝記録がスタートしたのはこの頃からです。

そうこうしているうちに2年生になりました。あまりの阿保さ加減に、学校の先生が家庭訪問のときに「塾に行かせよ」と親に言ったので、塾に行く羽目になりました。初めに言った塾は、よぼよぼのおじいちゃんの塾で、通って3ヶ月で先生がお亡くなりになって有耶無耶になりました(^^;
その次に、親の知り合いというか親類のやる塾に行きました。この頃からでしょうか。数学と英語がめきめきと出来るようになりました。アヒルばかりの通知表が、耳やヨットぐらいにはなってきました。

あと、この頃、結構ないじめという奴に会いました。ただ今時の無視系ってよりは、フルコンタクトな攻撃系で、胸部挫傷で病院に行く羽目になって、事が露見して、そのいじめのほうも有耶無耶になりました。
そのときに、人は逆境にいるときこそ相手の価値が分かるってことも知りましたです。まぁ、調子のいいときでも悪いときでも同じように付き合ってくれる友達ってのは大切な友達です。

この頃、マイコンベーシックマガジンとかプログラムポシェットとか言うプログラムが出ている雑誌を読んで、「ゲームって自分で作れるんじゃん」と思って、SEGA用のBASICカートリッジとキーボードを買いました。でも、マイナーすぎて売っている本のゲームはほとんどそのままでは動かないという実に悲しいことも分かりました。
でも、同時に、ノイマン式コンピューターはグラフィック等の機能部分は別にして、論理構造は一緒だから「移植」すれば動くということも覚えました。俄然、PCのプログラミングが楽しくなってきました。

で、ちょうどこの頃でしょうか。美深町に引っ越すことになりました。2年生も終わりのころです。またもや、修学旅行直前の転校で、修学旅行はあんまり楽しめませんでした。

この頃二人の友人を得ました。
一人は、うちの1.5男というぐらいうちに入り浸ったやつで、僕より先に三河地方で生活を始めて、今の家内との結婚に関して一生懸命支援してくれた奴です。
もう一人は、プログラムを作ることを一緒に切磋琢磨した友達で、才能があり、本業のゲームプログラマーになってしまいました。彼は雑誌のテトリスのコーナを見ただけで、実際にテトリスを作っちゃうすごい脳みその持ち主でした。
この2人とはいつも一緒につるんで、ゲームで遊ぶか、ゲームを作るか、作ったゲームを検証するかを延々と繰り返していたような気もします。
この頃、ゲーム作りをするために、SEGAのBASICから脱却して、MSXに鞍替えをしました。セーブしたりする周辺機器が良かったし、実施できる様々なソースコードの情報や事例が多かったので、勉強になりました。ビデオゲームを通じて何か表現が出来るなぁと感じれたのもこの頃からです。

ただ、この頃、いじめの影響か性格的には最悪の人間でした。学友に正論を吐き論破し、「お前みたいなロボットに何が分かる!」とべそをかきながら切れられたこともありますし。
とにかく嫌われてもやることやればいいだろうが系の人間でした。今でもその辺の性格の名残は少なくなったりします。学級新聞も金賞を取りましたが、指示をしましたけど作業は一切しなかったので「おまえなんもしてないじゃん」とかいわれてみたり、卒業アルバムの編集委員長なんかもやりましたけど、代替2年の末に転校してきて全うなものが出来る分けないじゃんかとか反発してみたりと。でもやっちゃいましたけど。
でも、ここでもやっぱり支えてくれる友人はさえてくれたんで、嬉しかったですね。

あ、弁論大会ってのにも出ました。学内予選は通って地域予選に上がったんですけど、学校の先生他とマイクロバスで移動している道中、昼食にカツを食べたらいつまでも出てこなくて遅刻。ついてみたら、僕が一番初めの発表者になっていたらしく、みんな待っているという変な自体に見舞われました。さすがに、ペースを乱して自滅。銅賞に終わったような気がします。それ以来、カツを食べると負けるという変なジンクスが出来ました。

あと、家庭はしっかりしていて良かったんですが、地域は最悪でした。すっかり労働組合は嫌いになりました。うちの親を誹謗する根拠の無い怪文章が配布されてみたり、猛吹雪の日にアパートの除雪をしたら、あのうちの担当の日だから一切手伝うなとか変な通達を出して嫌がらせしてみたり、あきれることだらけでした。
でも、うち親が偉いなぁと思ったのは、裏で菓子折り持って来た人に対して筋が通らないからとかしをりを受け取らないで帰して、その上で、自分の部下はみんな適切な再就職なりJRに残すなりをやってのけたわけです。あんな、下らぬ嫌がらせをしたようなばか者に対しても、粛々と情を持って処理したわけです。
嫌われても正しいことをする。これは自分のポリシーとして身についたことでもあります。

この頃、近所の本屋で残った小遣いで、たまたま買った「ノックの音が」という星新一の本があり、ここから星新一フリークというか、フィクションを読むことを覚えだしました。

で、親の転勤もあるので、高校の受験は、旭川西高校の理数科というのを志望して受験しました。やっぱり、科学者志望だったってのもありますし、西高の科学部ってのは結構伝統もある所なので、希望したってこともあります。ついでに、中学校3年生のとき転校したら、成績が2ランクも急上昇。で、実際に受験直前の倍率は1.0。90人定員、88人受験。こりゃ大丈夫と思ったら、やられました。
当日数学で一つの問題に固執したら時間を忘れて、他の問題が解けなくて、自滅。それ以来、仕事を人の3倍の速さでこなしたり、時間にうるさくなりました。

で、涙一つ流すことなく、答辞かなんかを読まされた気もしますが、卒業式を粛々と終えて帰宅。荷造りをして、上富良野町に引っ越していったのでありました。