のらの成り立ち~その3:児童期後編~
小学校4年生の後半で、またまた転校します。今度は深川と言うところです。
このわずかな間の4年生後半の時の先生の印象は0です。誰だったんでしょうねぇ.....。
で、すぐに5年生になります。
ここでも、結構インパクトのある先生に出会いました。下の名前は覚えていませんが、山口と言う先生でした。「うちの組の名前は山口組だ!」と、担任が分けのわからないインパクトでクラスを支配しておりました。おまけに、クラスの唄には、強制的に松山千春の「大空と大地の中で」が指定され、毎朝と下校時に強制的に斉唱させられました(笑)
個人的には、この状況は嫌ではありませんでした。で、この先生も土日に有志を連れてよく外に子供らを連れ出してくれました。なんでも後に自分の親に聞くと、連れて行くときに、各親御さんには「死んでも知らんぞ」といって、了承した親の子だけを連れて行っていたようです。今思えば結構、危険な中でいろんなことをやらされたと思います。
ここで、僕の仕事や勉強のスタイルを決める事件が一つ起きます。授業中に、ひたすらノートを取っている子がいて、先生の話を聞いていなかったことに、この専制先生が切れてしまって
「ノートなんか取るな!俺の話を聞け!」
とぶち切れました。で、それ以来うちのクラスはノートを取ることは禁止。ひたすら相手を良く見て話を聞く以外はないわけです。とはいえ、聞き返すことは自由だったし、比較的自由に質問をしたり議論はした記憶があります。
ただ、これ以来、メモを取るのが下手なんですね。とにかく聞いて覚える。必要であれば後でまとめて文章化する。と言う流れになりました。ちなみに、この状態は大学生になるまで続きました。ですが、この週間は結局、社会人になってから元通りで、今でもメモを取らない人間です。
友人の中で、落語にはまった奴がいて、その流れで、理科学書、ノンフィクションに加えて落語と言うものをよく読むようになりました。僕の会話に変な落ちや笑いがつくのは、このせいだと自分では思っています。
あと、学校前の簡易裁判所で、朝早く遊んでいて、気がついたらお昼休みだったとか、夢中になるとほかの事をしっかり忘れるほどあほな人間だということも良くわかったのもこの頃です。
この頃、いろんな意味でのゲームっ子に変貌しました。先ずはまったのはボードのSMGです。もともと、軍艦とか結構ミリタリー物を作る趣味が高じて、書籍にゲームにと展開したわけです。
で、あと、この頃よく遊んだ子のうちが、喫茶店でした。昔、喫茶店はビデオゲームの遊べる場所で、よくただで遊ばせてもらいました。で、しっかり、ビデオゲームの魅力にスッカリ取り込まれました。で、お年玉は、SMG、ビデオゲーム、プラモとものの見事に吸い込まれていきました。
ただ、先生の一言が僕の中でこの事態を正当化していました。「遊びは勉強。勉強は遊び」なので、徹底的に遊べといわれたんですね。その後の人生をある面で方向付けてしまった名言です。
そうすると、自分で作りたくなったり家で遊びたくなったりするのが人情で、一生懸命、チラシの裏に六角形を大量に書いて、厚紙を小さく切って、いろんなSMGを作るわけです。今思えばよーやったもんです。で、プラモのほうも、出来合いじゃ満足できなくて、プラバンを買ってきて色々作ったわけです。
ですが、ビデオゲームってのは雲上世界のもので、どう作っていいものやらと思っていました。
そうこうしているうちに、ファミコンブームってのがうちの田舎にもやってきました。で、ファミコンを買いたかったのですが、旭川のデパートまでいって結局売ってなくて、泣きながらSEGAというマークの入ったゲーム機を購入しました。で、これはこれで結構遊べるので、夢中になって遊びました。ただ、このせいで、世間のマジョリティに背を向けて、マイノリティな人生を楽しむ癖がつきました。
なんだか書いてみてこの一年間で、ひねくれものの原点が出来上がったのが良くわかります。スッカリ人と違う発想法と習慣が身に付いた一年間でした。
で、この後、都会の旭川市に引っ越します。生まれたのは旭川市なので、ある意味故郷帰りなのですが、田舎モノの感性だったので、ものの見事に馴染めない小学校最終年度が始まりました。
なんたって、修学旅行の年です。友達もろくに作れていません。この環境下で修学旅行たってねぇ。今一覚えていません。同じ班や同じ部屋になった子はある意味災難だったかもしれません。でも、夜中に、寝ない子供になにやら怪しい液体を回って飲ましていた担任はいたなぁ。今思うとあの味はウィスキーなのではないかと。
学校生活的には、転校生の癖に図書委員長なるものをやったことを覚えています。恐ろしいことに、そこの学校って図書室がなくて、旧校舎を活用して「図書館」だったんですよね。今思えば、結構本格的な司書業務でした。で、啓蒙用の劇の台本を書いたりしたのがこの頃でしょうか。物書きデビューだったのかも知れません。
家出の生活は、当麻~深川時代を踏襲して、読書、SMG、プラモ、ビデオゲーム三昧でした。プラモは、なにやら賞を取ったことを記憶しています。
で、後覚えているのは、生まれて初めて、映画館で映画を見たことでしょうか。兄と一緒にETを見に行ったことを覚えています。
学校では上手くかみ合っていませんでしたが、なんせ前の年に十分ひねくれものの素質が開花しちゃってるんで、気にした記憶はありません。見事にノートを取らない一年でした。成績は覚えてませんが、やっぱりたいしたことはなかったように思います。
で、なんだかよくわからないうちに、小学校が終了。卒業文集の将来なりたい職業欄に「科学者」と書く子でした。で、中学校に突入します。