のらの成り立ち~その1:幼児期~

ほかの自分の日記とネタがバッティングしないようにと工夫して、この「のらっぷり!」を書いているわけだけれど、このスペースをくれた方からの元のリクエストに、舟橋の送るのらな生活を書けというのがあったので、のらな生活を書かねばならないけど、そのまんまじゃ、明らかに日記とダブるので、キャラを変えて視点を変えることでほんの少~しだけ、差別化をしてみていたりしています。とはいえ、いい歳した30オヤジが、「~のら」なんていいつのっている(というかかきつのっている)様は明らかに変だったりします。明らかに苦情が多かったら次回ののら生活は、また違う趣向でいこうと思います。

で、言い訳が長くなったのですが、この変な30オヤジの成り立ちでも書いて、少し自己紹介っぽいことをしていこうと思います。

北海道旭川市というところで、鉄道員(ぽっぽや)の次男で生まれました。といっても、まぁ、僕の生まれた頃の旭川は十分近代化され、あの映画のような趣のある風景ではありません。その時点の家族は父、母、祖母、兄で僕を入れて5人家族でした。

はっきり言って、この頃の記憶は限りなくありません。あるのは2~3才頃に入院していた病院の天井の風景ぐらい。アルバムの写真と親の話を総合すると、仮面ライダーV3をこよなく愛する普通の幼児だったようです。
まぁ、うまくしゃべれないので、「ぶいすりー」といえず「ぶいちー」っていって喜んでいたみたいです。いまだに実兄には、ぶいちーってバカにされます。
あと、弟のことを「おんじ」と呼ぶのですが、この頃、意味がわからず「おんじと鼻血はどっちがえらい?」と親類縁者が集まる満座の中で聞いたことがあり、親戚にはいまだに「おんじとはなじ」といってバカにされます。幼少のみぎりの舌下事件は気をつけましょう(苦笑)。

鉄道員の常として、実は引越しというのは宿命です。駅から駅へと渡り歩いて仕事をします。当時、あまり単身赴任というのは聞かないことでした。単身赴任の弊害なんかがニュースになるぐらいでしたし。
で、うちもご他聞にもれず、お引越しをすることになります。5歳くらいのときでしたでしょうか。

次に住んだのは、近年著名になってきた幌加内そばの産地の幌加内町でした。
とっても田舎でして、母は専業主婦なのですが、幼稚園というものがないので保育園に通ってました。
この頃のことはボチボチと記憶にあります。
保育園ではお昼寝が嫌いで、とにかく昼寝をしない子供で、先生に無理やり顔にタオルをのせて(当然濡れタオルを鼻と口にではなく、乾いたタオルを目の上にですけど)寝かしつけていましたが、結局お昼寝をしないことは日常茶飯事でした。とにかく遊びたかったようです。
あと、祖母がよく保育園まで送り迎えしてくれていました。帰り道に何か駄菓子を買ってくれたことと、その道中の橋の袂で千円札を拾って狂喜していたら、祖母が交番に連れて行ってくれて、ちゃんと落し物の届出をしたことをよく覚えています。
最後に、とにかく冬が殺人的に寒かったこと。よくこんなところで生きていたものです。時々水道管が凍って、朝、水が出なかったようなことを記憶しています。

この頃、TVはNHK教育と決まっていまして、TVでやっていたジャガイモの植え方を覚えて、隣のおばさんにジャガイモの植えたか指導をしていたそうです。当然その頃の大人たちには常識だったのでしょうけど、よっぽど微笑ましかったらしく、しっかり営農指導に従ってくれたそうです。
あとは、「できるかな」の影響で暇さえあれば紙工作で、ガムテープは大量消費するは、家はなぞのものの製作時の出るごみくずで散乱してるわ、ひどい状況だったようです。母はガムテープをせっせと買って苦労したようです。

この頃の行動範囲は、祖母と母に連れられる半径の中で行動していました。幼児なので当然ですが。
この田舎の町、幌加内で小学校になりますが、それはまたの機会のエントリーで。