本末転倒
最近、日本各地でサイエンスカフェって代物が流行っている。これ自体は全然いいことだと思うんだけど、運営者の愚痴で「どうしても、(海外で知られているようなトークスタイルじゃなくて)講演会スタイルになってしまって、雑談というかたちにはなりにくい」というのをチラホラと聞く。
僕なんかは「そりゃそうだ」とか思うわけだ。そもそも、多くの海外と日本での科学の文化的差異がでかいんだから、しょうがない。あくまで、ともに議論をし考え作り上げる文化としての知の体系としての科学として存在する欧米と、権威ある知識体系を上から教わるって得られる知と思われている日本における科学のあり方は違うんだから、カフェって場を作ったからって、日本人が急に欧米のように科学を捉えるって事はない。
いわば望む状態が本末転倒ってことだ。日本人のなかの科学観や知識観が変容するからサイエンスカフェが必要とされるんであって、サイエンスカフェを繰り返したからと行って、一朝一夕に日本人のなかの科学観や知識観は変容しない。どこぞのお役所なんかが理科離れ云々ってことで、こういう活動を推進しているけど、そう考えればこれは完全に本末転倒な話。
うちの親分がよく言うジョークで「マシンガンで打ちのめされた軍隊が、音が鳴り響いた後に我が軍が倒れているから、マシンガンではなく太鼓を乱打して反撃した」ってのがあるけど、まさに、サイエンスカフェなんて科学が文化になった後になる音。音を鳴らしたからって、科学が文化になることはない。関係者の努力を否定する気はないし、応援はしているんだけど。
やっぱり理想系って、大学人が地域人になって、地域人も普通の人として大学人を受け入れている社会だと思う。で、必要なときに、その大学人にちょいとお知恵拝借、って感じでみんなお伺いを立てる社会。そういう社会であれば、別に改めて「サイエンスのカフェ」やら「サイエンスのバー」なんかは必要がない。というか、すべての喫茶店がサイエンスカフェであり、すべての居酒屋がサイエンスバーってわけだ。
実はおんなじことをビジネス系カフェが流行ったときにも思った。別にカフェで気楽に仕事の話しをすれば良いわけで、仕事と苦行と考えないでもっと好きなことをやっていれば、喫茶店で熱く語り合う事だって簡単なわけだ。そう考えればこれも結構本末転倒な話だった。というか、改めてビジネスカフェって言わないけど、昔から、喫茶店で打ち合わせってのは珍しい話しじゃなかったりする。
こう考えていくと、実は、もう一つ本末転倒な代物がある。それはタウンミーティングって奴。こいつもやってみたら、大陳情大会だったり、バッシング大会だったりと建設的ではないことが多いわけだ。たまにしか話しが出来ないから話す市民もエスカレート。別に市長を含め役人だって地域人な訳だから、彼らが日常的に節度を持って、地域人として、色々お話しをして生活していれば済む。それこそ、ガバメントカフェだのガバメントバーだのってのが気楽に開催されていれば済む。陳情ではなく、自治体の制度設計とかありようをざっくばらんに話しをする場。こういう議論がはじめからできる素地があれば、改めてタウンミーティングなんてしなくて良いわけだ。
なんというか、政治でも知識でも、日本じゃ文化になっていない。どっちもお上のすることってなっている。で、それにかかわる人は特別視されがちである。そんなことはない。首根っこ捕まえて、適当に聞けばいいのだ。で、ムラ社会に取り込んでしまえばいいのだ。地域人として一緒に飲め、食え。
毎日の挨拶が「もうかりまっか」「ぼちぼちでんな」だけではなく、「(研究が)すすんでまっか」「ぼちぼちでんな」とか「(条例を)まもってまっか」「ぼちぼちでんな」って挨拶を気さくに交わせる社会を作る方策を考えれば、改めて○○カフェだの○○ミーティングだのする必要はないってことだ。