人民は弱し 官吏は強し

善良なる日本人は自国を知り、自己を知り自己を信じ、自己の責任を知り、自己の責任を果たします(同書p138。選挙立候補時のパンフレット「選挙大学」の冒頭より)

「明治・父・アメリカ」を読んだあとには必ずこれまでセットにして読みたくなる本。
明治期にアメリカ大陸で、当時最先端のITである新聞という土俵で、日本というコンテンツを駆使して創業、いわばITベンチャーで一定の成功を収めた星一のその後を描いたもの。
で、彼が行ったのが創薬のバイオベンチャー。ITからバイオってどっかの国のどっかの地方で聞いたベンチャーロードだけど。
その会社である星製薬の、創業から瓦解への、かなり読んでいて切なくなるストーリーである。

そのタイトルと内容から、どうしても、「日本の国の官僚ってのは、昔からろくでもないんだ」という内容としてとらわれがちである。また、星氏の筆致の素晴らしさからも、そうした印象を受けがちだと思うし、多くの書評家やら一般読者の印象だろう。

が、そう読んでしまっては、星一が目指したものを見失ってしまうんじゃないんだろうかと、改めて思ったのが、冒頭の引用。彼が目指したのは、日本をフェアな社会にすることであり、自分が思い通りにならないことを外野から「○○がわるいんジャン」と言い募ることをしなくなることじゃなかったのだろうかと。そして誰かが何かを何とかしてくれるという姿勢を排除することだったのではないかと。
あくまで自己で思考して努力し、他人の行いを評価するときにもメディアに踊らされることなく、自己でエビデンスをそろえその評価を適切に主張し議論し行動に反映していく、そういう人間であれということなのではないかと思う。

そういう意味では、実は、このタイトルの主眼は「官吏は強し」ということを批判することではなく、そういう国民一人一人が意思をもてない日本という国の「人民は弱し」ということこそ、反省すべきことなのかもしれない。
そう思うと、この作品の大衆における評価のあり方こそ、大変恐るべき「民主主義国家のリトマス試験紙」である。