孫の力―誰もしたことのない観察の記録
近所の子どもたちが集まって遊ぶ風景は、現代日本では失われてしまったが、保育園はより充実した新しい形でその機能を果たしている。(P.iii、はじめに)
「子ども同士の遊びがなくなりました」とか「昔の路地裏のよさがない」とか、評論家は勝手なことをいうが、現実の保育園はそんな貧弱な世界ではない。(P.226)
ほんとう、口先だけで云々するよりちゃんと子育てしなさい。観察を徹底するだけでだれでも気がつくことです。保育園の子の素行が悪いなんて馬鹿な事を言う口先子育て評論家は、猛省しなさい。
たぶん、子育て体験しなかった爺世代が書いた「今時の子ども論」の本の中では、ずば抜けてまとも。きちんと対象を一個体とはいえ、丁寧に観察し記述しているだけのことはある。数個体を自分の都合のいいように観察して、世の中全般に敷衍して「いまどきの若者は」なんて、愚論を吐いている文化人などと比べれば非常に秀逸だ。
さすがは、
祖父は一日十二時間、野生のニホンザルを追跡し五分ごとに全体を見渡してデータを記録すること三年、日暮れから夜明けまで檻の前で、三十秒おきにライトを点けて、アイアイの活動を観察すること半年という経歴を持つ。クリップの数になんか負けない(勝つか負けるか、だけが人生の価値ではないが)。(P.56、孫のクリップの繰り返しに対して)
こういう心意気で、自分の都合を一切出さず、観察に徹しているだけのことはある。ここまで来ると、親以上に子どもを見ている部分も多数あるはず。
まぁ、研究としてはさすがにお孫さんかわいさがあるので、こんな感じで
とにかく孫には祖父母のその能力の限界を超えさせる力があるらしい。(P.186)
どうかなという部分もあるけど。とはいえ、自分が子育てをしている感覚として
「片づけなさい」は「おまえのまほうは、がらくたと同じ」と言われることである。(P.48、おもちゃを片づけること)
祖父は孫娘にいつの日か誰にも崩せないほどの大きな仕事をしてほしいと願う。そして、その素地はこの一歳七ヶ月の日にすでに見られていたと、祖父こそは予見していたのだ、と。(P.69、積み木遊びをする孫に対して)
なんと! 人は日々、自分を越えようとする動物なのだ。(P.86)
私たちは子どもというだけで、高度な知識は必要ないと思いがちだが、五歳にもなった子どもの理解力には恐るべきものがある(P.172)
この辺は、すごく説得力のある観察であり感想だ。僕も同じ事を二人の娘を見ていて思う。一個だけ僕らの世代的には、分からないこととしては
素読は、近世日本の初等教育の基本だった。これを廃して小学生に幼稚な文章を与えるようになったのは、明治維新以来の日本人教育の悪癖である。(P.176)
この提言ぐらい。あとは、子育て体験をしていればすんなり読める本だと思う。
たぶん、こういうちゃんとした観察からこういう話が出るんだろうなというのが巻末に。この著者と同世代の年金年金騒ぐ爺どもは、以下を読んで、自らが孫に託せないような未来を作った事を良く反省しなさい。作ったのは俺ら親の世代ではないよ。維持してしまっているという点では反省すべきだけど。反省の上、手を結ぼうといってくれれば、僕ら親の世代はその手を振り払うことはない。
研究の本としては問題はあるかもしれないけれど、ぜひ、多くの人に一読願いたい一冊ではある。
若者たちに未来を託すといえば無責任になるほどに、世界はきびしい。現代の祖父母は親たちとともにありったけの能力を振り絞って、孫とそれに続く世代が「汚染と戦争と圧政の恐怖に脅かされない社会」を、どうしたら準備できるのかを自らに問いつづけ、その解答に迫らなくてはならない。(P.233)