武揚伝

三十一年間世の中から恩を受けるいっぽうであったおれが、いよいよ世にご恩返しするための場所。その位置であり、その空間、その拠点。それが開陽丸だ。(2P.211)

余裕で31年以上世の中から恩を受けてまだ返しておりません。開陽丸ではないにせよそういう場所は私も欲しいところです。「開陽丸も沈んだし、おれたちには行く先がないじゃないですか」(4P.439)と仲間は言いましたが、榎本武明は開陽丸が沈んだ後も、世に恩返しし続けはしますので、場所の問題ではないのかもしれません。

本書は榎本武揚の幼少から箱館戦争終焉までを書いた半代記。読みようによっては、前半はある種の青春文学で、後半は幕末動乱ものの歴史小説という感じです。ちょうど、同じ時期にかぶる半代記として、かなり前に紹介した「行きゆきて峠あり」があります。
なんというか、この作品をかなり意識しているなぁと感じるのは、なるべく違う世界観で、カッコイイ技官榎本像を打ちたてようとしているところ。なので、酒飲みで洒脱な感じの榎本像はあまりありません。酒飲みっぽいところの話では、ハイネケンをヒマさえあれば飲み、

おれは、蝦夷地でビール工場を作ってみてもいいかな。(3P.175)

というぐらい、ビール好きという描かれ方。ま、この程度の違いは良いのですが、かなり意識していると感じるのは、勝海舟はカリスマがなくて、口先でキュウキュウしている役。最後の最後に

お前さん、いつのまにそんな器になっちまったんだ?(3P.361)

なんて、勝に言わせている。とはいえ、良い子ちゃんの榎本君は基本的に先輩を立てつつ、蝦夷渡航の話をギリギリまで伸ばす。それが敗因といわんばかりの、一作に仕上がっているので、勝ファンは読むとちょっと不愉快かも。それでも、蝦夷渡航は

「お前さん、江戸の美食になれた徳川の家臣たちが、芋や粟を食って我慢できると思っているのかい?」(3P.225)

こういう風にネガティブに、勝が語る会話のなかで、勝が出した話。これを

脱藩者を引き連れて蝦夷ガ島へ向かう?悪くない構想ではないか。いいことを聞いた。(3P.227)

と、さくっと榎本が貰ったという仕立てになっている。あと、とばっちりをかなり食った感じになっているのが徳川慶喜。これも大言壮語の優柔不断に完全になっています。長州征伐やら、鳥羽伏見の前後やら出席する会議という会議は

なぜものごとは、どうみても合理性のあるほうには決まらないのだろう。(2P.284)

という状況。それでも、土方・榎本はかっこよく

「放っておいても、乱れるときは乱れる。だかその混乱に方向を与えて、混乱を産みの陣痛に変えることはできるのだ」(2P.295)

「剣を抜くときは使うときであり、兵を動かすときも同じこと。兵を動かした以上は、戦うしかありますまい」(2P.349)

と、自体を前向きに進めようとする。ところがさっさと妾と将軍はトンズラ。しかも開陽丸で。

「誰かが。収拾しなければならぬと思った誰かが、やらねばなるまい?」(2P.374)

と、榎本がリーダーシップを取って、混乱を収拾していく。その辺の絡みは本編の楽しみなので、これぐらいにしておくとして、彼が少年期成績不良だったのを、親の先見性で、

「誰か、地球をこんなふうに見たひとがいるの?」/「誰もいない。地球の外に出なければ、見ることはできない」/「じゃあ、どうして地球がこうだってわかるの?」/「学問のおかげだ。世の理を知れば、じっさいには見なくても、わかることがある」(1P.8)

という実学を、叩き込まれ自然と

人格を磨くことでひとの上に立つよりも、知識と技能を練磨することで、大きな事業の先頭に立ちたかった。(1P.30)

百の議論をするよりも、たとえば蒸気機関を動かせる日本人を百人増やすことのほうが、社会を確実により時代にふさわしいものに変えるはずである。(1P.246)

こういう思想の持ち主になってしまったので、成績が低いという事にしてある。でも、個人的にはティーンエージャー榎本君として、「おもろくねぇもんはおもろくねぇ!」ということで成績が悪いと良いなぁとか思います。まぁ、現実は分りませんが。しかも、将来の日本を大鳥とすでに語らった中にかなり早い時期になっています。なんだか幼少から凄いエリートです。

「彼は日の本には陸軍が必要だと言い、わたしは海軍だと言った。ふたりがそのとき共通して心配したことは、こういうことでした。自分たちは、間に合うだろうか、と」(1P.216)

北海道探索の御付、オランダ留学とダイナミックな移動と体験が続きます。
北海道についての意識がこの時期についていきます。

「この旅のあいだ、だんだんおれは、自分が和人であることが恥ずかしくなっていたんだ」(1P.114)

「蝦夷地が不毛だなんて、大嘘です」(1P.261)

さらい外国への見識をオランダで深めていく。それにしても留学生たちは出発から日本人の見識の狭さにあきれる日々となる。

「日の本の秘密っていったいなんだ?何を教えちゃいかんのだろう」(1P.331、留学の宣誓書に対し、沢が)

「氷のために通商すべきとは思わんが、通商をすれば、こんなものも入ってくるのだな」(1P.355)

留学中、オランダの情報を得たいとたまたま来ていた日本の友好使節に呼び出されるも、面会するなり追い返される。

おれの風体が気に入るか気に入らぬかの問題ではないはずだ。オランダとの友好関係が保てるかどうか、という案件で、おれはいまここにいるのだが。(2P.111)

実に、いまの日本でも良くある話で、僕もそういう目に会い続けているので、なんだかなと思う。明治維新でも変わらん国なんだな。で、帰ってきてみて、第一声が

「コロニアルだ。コロニアルそのままだ」(2P.170、横浜を見て)

植民地、日本。混乱のなかで、友人の妹と結婚。

「釜次郎様の頭の中には、いつも地球儀があるようだ、と兄は書いておりました」(2P.207)

その器量にふさわしい行動を邪魔しないつつましい女性ということなんだけど、書簡集の書簡とか読むと、奥さん、そんなに女々しくないような。この辺、女性の出番が少ない(というか歴史資料上は多分いない女性が頻繁に出る)のも、「行きゆきて峠あり」との違いかも。
ともあれ、家族を得たので

自分ははたしてこの家族を路頭に迷わせぬだけの力を持っているだろうか。(3P.25)

ということなのだが、他人の家族も含めて路頭に迷わせない選択肢として

自分たちは、過去によって奪われたものを、未来に取り返すのだ。そのための大地が、蝦夷ガ島である。(4P.122)

食うためだけに切り開く先としては、あまりに豪快である。

新しい事業を興すのだ。ここから先は、命令と給金だけではひとを統べることはできないし、動かすことも不可能だった。(3P.323)

ただ、もし本書のようなモチベーションで彼らが上陸していて、彼らが自由に北海道を開拓していたら、後に語られる開拓の悲劇話はずいぶん少ない形で、開拓が語られたんじゃないんだろうかと思う。で、食うために開くのにあき足らず、諸外国と交渉しながら、共和国の樹立を目指す。

「達者な外国語だな」/「幕府の金で、学ばさせていただきました」(4P.219)

とはいえ、もう、この時点で幕府へのご恩返しの意識はすでにない。なぜなら、ある面で、幕府の弱腰、将軍の弱腰への怒りが徒党をまとめている。で、

「その怒りを、ひとのかたちで表すと、榎本釜次郎になるのさ」(3P.332)

ということ。なので、入れ札をすると共和国の大統領は自動的に、榎本になる。
ところが、ナカナカ投票で選ばれた首班というのも大変。

「当然だ。先頭で戦うために選ばれたのだ」(4P.360)
「あんたに従うために、おれたちはあんたを入れ札で選んだのだ」(4P.375)

と、威勢が良いときは良いが、奮戦空しく自害でもしようとしたら

「総裁だけの戦いではない。総裁は首謀者ではありません」/「なら、なんだと言うのだ?」/「単にわれらが入れ札で選んだ統領というだけ」(4P.447)

といわれる始末。あんたら、従うために入れたんじゃないのか。でも、その雄図は、なんら恥ずべきものではなかったはず。

「ライオンは、赤ん坊のときでもライオンだ。羊とはちがう。規模は小さなものだったが、あれはまぎれもなく偉大な共和国だった。そうは思わないか?」(4P.427)

こういわれていたかもしれない。日本で誇るべき民主主義への一つの挑戦の形だったのかも。

「奮戦も及ばず、われら志なかばにして降伏のやむなきに到った。だからといって、われらがここに自治の州を築かんとした想いに、毫も誤りがあったわけではござらぬ」(4P.451)


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およそ混乱の中にあっては、権威は自ら名乗り出て引き受ける者にこそ付与される。(1P.60)
明日はいまこの瞬間に明日を準備する者たちの、地に足の着いた営みの中にしか生まれない。(2P.29)
「わたしたちは、外で失ったものを、内で取り返すしかありません」(2P.58)
問題は、どちらがどれだけ人心をつかむ理念をあざやかに指し示すことができるかだ。(2P.277)
「持ち慣れぬものを持ったときに、そのひととなりの本当のところがわかる」(3P.201)
「国力は、国の広さではありませぬ。自由なたみびとがいて、自由な市場があって、その自由を断固として守るという政府があれば、それが国の力となるのにございます」(4P.159)
「みずから動かぬかぎり、ものごとは変わらぬ」(3P.74)
一度決まったことをひっくり返すのは容易なことではない。とくに結論がさんざんに引き延ばされて、最後に「空気」がそれを決定したという場合は。(4P.39)

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「おれは、なんたって名前が釜次郎だからな。蒸気機関とは相性がいい」(1P.172)
もう彼ら(「志士」なる連中)には、いつかは蒙を啓けとは期待しない。今願うのは、おれの前に立ちはだかるな、おれの行く手をさえぎるな、ということだけだ。(1P.323)
「おれに遠慮はするな。艦隊はあんたのものになった。自由にやれ」/「これまでも、遠慮はなかったつもりです」/「たしかだ。そのとおりだな」(3P.113)
「ひとには器と役どころというものがある。わたしは、斬りこみ隊の指図役がふさわしい。だが、軍をまとめ動かして勝利に導くのは、あんたの仕事だ」(3P.158)
「榎本さん、あんたも立つべきときですぞ」(3P.217)
「その怒りを、ひとのかたちで表すと、榎本釜次郎になるのさ」(3P.332)
武揚ほど情勢の節目節目に文章を発表している指導者はいない。(4P.117)
「陸軍だけにやらせてしまった。海軍はまた働けなかった」(4P.190)