軍艦奉行木村摂津守―近代海軍誕生の陰の立役者
「どこか非凡の力をもちながら、何をきかれても断言したことがなく、こうじゃないかと思うがと、何も知らないおじさんのようになっていたおじの心を、なつかしくも奥床しく思い出します」(P.280、木村の姪の談)
こういう風に子供や孫に言われるおじいちゃんになりたいですね。で、このおじいちゃんってのが、日本の海軍の祖とも言われる木村摂津守。
「日本」を守る不敗の艦隊を持つという構想が、文久の軍制改革に現われたのは画期的なことであった。(P.169)
その構想とか防衛海域の設定とか、ほぼ近代の構想と変わらないものになっていたそうだ。
それにしても、幕末の海軍に関する神話をことごとく潰している本書は結構読んでいると面白かったりします。例えば長崎の伝習所なんかは
伝習に遣わされ候者ども不行跡は聞きしに増さる次第、嘆息仕り候。(P.33、木村の報告書)
というひどさ。思い切り開拓使仮学校を思い出しました。ただ仮学校のほうは
直参と陪臣との壁は幕府がある限り崩れなかった。(P.95)
というように、幕府がなくなって、身分制度自体が壊れたので
風紀取締りの場合でも、教育訓練の場合でも、(封建的身分制度と近代合理主義の)この矛盾のためすべてが不徹底を免れなかった。(P.38)
ということはなく、がっちり一時閉鎖したぐらいにして。それはさておき、さらにアメリカ渡航に関しても、
何分身分を上げる事もせず、まだあのころは、切迫していないものですから、ソウ格式を破るという具合にゆかないので、それが第一不平で、八ッ当たりです。(P.259、勝について木村談)
という、八つ当たりでの航海で、ついたらついたで、恥をまき散らかさないように
上陸の節市中並びに野外とも私に酒食を相用い候義一切相成らず候事。(P.107)
なんていう御触れを出す始末。まぁ、大体伝説の物事ってのは、よく検証しちゃうとつまらなくなっちゃうんだよね。
それにしてもこの人、勝のせいで構想から渡米から色々ぶち壊しになったのに、
勝先生は此の小刀細工が嫌いで、一生策略をせられたことは無い様に思います。(P.266、勝について木村談)
なんて、ポジティブに人物評をするんだよね。こういう人だから、きっと姪から冒頭の引用文の様に言ってもらえるんだろな。おれにはむりだ。どっちかっていうと
川村に代わって榎本が海軍卿をつとめた時期があるが、江戸っ子の榎本は、「薩摩の芋」を馬鹿にして、その激憤を買うような行為が重なり、間に入った赤松が、榎本に副官をやめさせてくれと申し入れたこともあった。(P.232)
こんな感じで迷惑かけるがわ。人生もっと修養せにゃあかんなぁ。
一死を決して其命に従い、乗組の人々にも懇々慰論し、草々に其準備をなして発纜の運びに到りなりし。(P.69、木村の日記)
彼等に対して包み隠すものは一つもなく、すべてが見せられ説明させられたのです。彼らの好奇心は満たされ、何処へ行っても親切と善意に出会ったのです。(P.118、ブルックのスピーチ)
余其の児女の物縫を見るに、其器極めて簡便にして、足にて踏めば機関自然に転旋し、緩急意の如く其奇功驚きに堪えたり。(P.125、木村の日記)
会議という性格上、その場にわかっている人数を増やすか、あるいはわかっていないメンバーを説得できる人間を加える必要がある。(P.161)
「五候鯖を製、井上信州を訪」(P.194)
日本はなぜ此の様に日曜と祭日が多いのだろうと恨めしく思ったことも縷々ありました。(P.286)