奥羽越列藩同盟

賊軍の名で奥羽越を一方的に片付け、日本の近代史において、戊辰戦争とは一体なんだったのかを十分に討議、検証することなく、歴史の闇に葬ってしまった。これは、日本人の恥ずべき歴史感覚である(P.256)

正直言って、戊辰戦争なんて漠然とした意識しかなくて、東北が戦場になって白虎隊とかいる会津藩が負けて、その後函館に戦場が移ったぐらいの適当な認識しかありませんでした。榎本艦隊の動きを調べていく中で、初めて奥羽越列藩同盟というものの存在を知ったぐらいです。まさに、恥ずべき歴史感覚の持ち主です。
さておき、新書という薄い本ながら、書くのも大変でしょうが、読むのも大変な本です。なんともテーマが暗い。

「江戸を引き払ひ、一歩たりとも北に退きて戦わんは、万に一つも勝算あるまじきなり。去りとて、事ここに到りし上は悔ゆるともまた及ぶべからず。庄内一円を焦土となし、城を枕にせんとの決心こそ有つて欲しきなり」(P.111、菅実秀(庄内藩))

こんな状況から始まる戦争なんだもん。おまけに、

戊辰戦争におけるもっとも優秀な軍事指揮官は、西軍では大村益次郎と山県有朋、東軍では幕臣の榎本武揚と河合継之助だ(P.79、歴史家小西四郎の評)

といわれる、榎本は

榎本氏は海軍の技術にこそ長じたるならんも、天下の体勢を見るに迂愚も亦甚し。(中略)然る時機に臨んで連合軍を援助せず、奥羽鎮定の後に至り始めて蝦夷地を経略せしは愚の至りと云ふべし。(P.144、『会津戊辰戦史』)

という感じで参戦しそこなうし、河合もさっさと撃たれてしまい

「会津へ行ったとて何のよいことがあるものか。おれは行かない。置いていけ」(P.163、河合継之助、長岡城で攻防で被弾し)

という状況に。末期にいたっては

婦女子や老人たちの奮戦に比べると、参謀たちの戦略のまずさは、いたるところで目についた。(P.179)

という状況。なんとも悲惨でツキの無い戦争だったわけです。それでも、最後の最後に降伏する

「戦いは時の運である。今日の場合、進退を官軍に任せ、多くの人民を救いしは大勇の致すところである。識者は必ず感嘆するであろう。嗚呼人傑多きかな」(P.191、大垣藩)

といわれ会津武士の武士道の名誉は保たれるわけだ。でも、やっぱり負けるべくして負けたんだろうなという印象も持った。

侍は形骸化し、戦闘要員としての用をなさなくなっていたのである。農町民を取り込み、地の利を活かしどう戦うかが、戦略のポイントになっていたのだ。(P.119)
会津戦争は地元の民衆を深く巻き込んだ、複雑多岐な戦いであった(P.169)

というように、武士の時代そのものが終わりつつあって、西軍は民衆をそのまま組織化した軍勢なのだ。
どっちが勝ったにせよ、勝ったほうが一方的に正義、ということは無いはず。

「顧みるに昔日もまた今日のごとく国民誰が朝廷に弓を引く者あらんや。戊辰戦争は政見の異同のみ」(P.120、原敬)

あとは、個人メモ。

箱館奉行の堀織部正に随行して(安政四年)四月二十五日から九月二十七日まで五ヶ月間にわたって蝦夷地と樺太(サハリン)を探索、風土、習慣、衣食住などをつぶさに見聞し、その顛末を『入北記』と題して報告した。(P.7、玉虫左太夫35歳)
「和ハ天下ヲ治ルノ要法ナリ、此要法ヲ失ヒ、何ヲ以テ人心帰服セン」(P.37、玉虫左太夫)
南部藩は蝦夷地警備のため北海道に約四百人の藩兵を送っており、これも至急、戻す必要があった。(P.99)
島判官ハ好意ヲモッテ会津人ヲ待遇シ(中略)之ニ反シ、岩村判官ハ土佐藩士デ、土佐藩士ト云ヘバ戊辰戦争ノ恨ミモアツテ、同判官トハ自然気ガ合ハナカッタ。(P.203、『小樽市史』)