個人主義論考―近代イデオロギーについての人類学的展望

individualismeは、具体的な人間を対象とするだけではなく、むしろ「個体論的思考様式」と訳すのがふさわしい、ある一般的な思考様式という意味もそなえている。(P.454、訳者解説)

実は、この本を読んでいる間中、その訳語が適切かどうかがずっと気になっていましたが、なるほど、訳者は知っていてそう訳したんであればいいかと納得しました。
さて、個人主義というか個物主義と総体というか全体というかそういったものを主でモノを考えるスタンスとそれによって生み出される社会構成について論じた本。

全体論と個人主義とは、合体させたり、なんらかの形で両者を包摂することはむずかしく、区別されたままにしておく方がやさしい。(P.305)

ということで、加えて、全体性というか全体主義というか一個の社会という構成物を以下のように論じていく。まずは、社会学と同じように社会の構成要素をとらえる

制度、価値、概念、言語をそなえた社会は、社会学的に見れば、個別の構成員に先行する第一義的な存在であり、個々の構成員は教育やひとつの具体的な社会への適合を通じてのみ人間になるのである。(P.114)

ただ、その再構成の手法としては、決して一般の社会学の手法は採用しない。

わたしたちは理念と価値の近代的体系に生きているという理由から、それを十分に知悉していると思い込んでいるのだが、逆に人類学的展望こそが理念と価値の近代的体系についての理解を深めてくれるのである。(P.21)

個人主義というある種の幻想に基づいて、実際には人類社会を構成する全体性の絡みで、様々な社会現象を引き起こしていることを指摘していく。

現代人はとかく全体性と全体主義を区別せずに使いがちであり、しかもまさに全体主義には全体性についての混乱が隠されている。(P.295)

全体主義とは「個人主義が深く根を下ろし支配的である社会で、それを全体としての社会のもとに隷属させようとする試みから生まれる」近代社会の病である(P.227)

民族意識が問題を孕んでいるのは、なにもドイツにおいてだけではない(P.258)

一般によく言われる社会契約論や、合意形成においても以下のように指摘。

社会は現在においても、また過去においても契約のもとに作られたためしがない。(P.117、パーカー)

人民は主権者であり、ひとたびその各構成員が集まる時、そこには不思議な錬金術が支配する。つまり、全員の個人的な意思から一般意思が生み出されるのだが、この一般意思は全員の意思とは何かしら性格を異にしたものであり、しかもなみはずれた属性を持つ。(P.135)

彼(コンドルセ)がアメリカ人を批判するのは、彼らが一国家内における権力の均衡を保つことに固執し続けていることと、また、何にもまして、彼らが権利の平等性よりも利害の同一性を原則としてまずもって強調している、ということにある。(P.145)

特に、個人的にはこの貨幣に対する洞察はなるほど納得。

(貨幣の)交換レートは、それが社会の基本的なひとつの価値と結びつけられているときには安定的であり、それと基礎的な価値そして社会のアイデンティティーとの絆が切られたとき、あるいはその絆が感じられなくなったとき、つまり貨幣が「全体的社会事象」であることを止め、単なる経済事象になったとき初めて浮動することが可能となるという仮説です。(P.373)

ただ、全体として気になるのは

(人類学にとって)精密科学からの影響はプラスだが、精密科学を真似ることはマイナスでしかない。(中略)数学的形式化がじつはしばしば未熟な思考と共存し、現実的で解決可能な問題を隠してしまうということも事実である。(P.318)

というスタンスを随所に感じる。数理的定式化を出来るけれど避けると言うのと、出来ない言い訳にすると言うのは違う。どうも後者の空気を感じないことも無い。
ま、とはいえ読むには十分面白い一冊でした。

真の完成とは、悪がないことではなく、それが(善に対して)完全に従属させられているということなのです。悪のない世界は良い世界とはいえないでしょう。(P.361、ライプニッツ的世界)