チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷
「そうだ、イタリアだ」(P.247)
イタリアの統一という一大覇業に乗り出したチェーザレ・ボルジアを主人公にした、歴史小説。マキャベリの君主論のモデルにもなった人物。いわば、イタリアの信長といったところでしょうか。
こんな歴史小説を何故持っているのかというと、大学の授業で紹介されたから。紹介してくれたのは、僕の大学合格に貢献してくれた教授(別に不正じゃないけど)。そんなこんなもあって、何度も読みました。純粋に歴史小説として面白かったりします。
今、改めて読むと、今の自分のステージからいって、この辺気をつけないとなぁとも思うのが
(枢機卿の)緋の衣を捨てたチェーザレが、その代りに何を取ろうとしているのか。人々が憶測や噂をはじめる前に、チェーザレはその準備を完了していたのである。(P.88)
というふうに憶測は呼んでいる状態に近いのですが、チェーザレのように準備はできていません。困ったもんだ。で、
何かを成し遂げようとする者は、決して金銭を軽蔑しない。(P.132)
という部分に難点がありますし
彼(チェーザレ)は、血で手を汚すならば、かえって身体全体をそれにひたしてしまう方を選ぶ男の一人だった。(P.154)
ここまでの思い切りもありません。とはいえ、
戦いをしようという者はいつもいる。そして、それに金を払う者もいつの世にもいる。(P.315)
戦いを事業に書き換えると、今の世もそうなので、
「あらゆることに気を配りながら、私は自分の時が来るのを待っている」(P.218)
とするのが大事なのかもしれません。そういう意味では、気を配らなさ過ぎですね。どうしましょう。自分で頑張るか。チェーザレのように。
力を持たない時、それに対抗する手段は技としての政治しかない。(P.44)
防戦を真剣に考えたのなら、城塞に力を入れるよりも民心を確保するのに努力すべきだった(P.114)
忍耐は、老人には容易だが若者には苦痛なものだ。(P.147)
「めったにしゃべらない、しかし常に行動している男」(P.160)
長い間をかけて育ててきた情熱は、一度それを外に出したら、容易に止めることはできない。(P.165)
「君たちは、何者だと思っているのか。私が君たちから、自分の判断の材料をもらうとでも思っているのか」(P.177)
「私は暴政を与えるために生まれたのではない。暴政者をたたきつぶすために生まれたのだ」(P.178)
互いの間に、相手を通じて自分自身の理想を実現するという、冷徹な目的のみが存在するだけである。保護や援助などに比べて、また与えるという甘い思いあがりなどに比べて、どれほど誠実で美しいことか。(P.186)