電視遊戯時代―テレビゲームの現在
テレビゲームばかりやってた時期があった。仕事の合間も、学校の帰りも、ウィークエンドのデートはもちろん、起きている時間のほとんどがコントローラーやジョイスティックを握っている状態だったことさえある。(P.3)
本日37歳になりました。誕生日の読書としてある意味相応しい一冊が当たった気がします。
たぶん、今の僕からは想像もできないという人も多いだろうけど、実はこういう子どもでした。ゲームで遊ぶということに命をかけていた様な気さえします。ゲームセンター=不良のたまり場、ゲーム=成績低下装置、という世間の目に対して実践を持って示すということで、相当がんばって学業とゲームを両立していた時期があるぐらいです。家内もその辺はいまいちピンと来てないでしょうし、子どもにいたってはゲームをしていると怒るお父さんと思っていることでしょう。
でも、大人は、子どものゲーム没頭に対して怒るべきなのだと今では思っています。
今日最も問われるべきなのは、どのようにすればテレビゲームのもつ魅力、面白さが失われないですむか、という点ではないだろうか。(P.156)
実は、この面白さの一つはやはり大人という権威と戦ってきて、自己の権利を得るために何をすればいいかを学ぶことも面白さの一つの要素ではないかとおもいます。で、そのことが面白さを高め、
近代の主体客体の分離と専門家の進行を越えて、単に楽しいだけではいやだ、お気楽なだけではいやだという態度をもち続けなければならない。それは、ルールのないゲームをしていくということだ。(P.133)
という態度につながり
「教育もおもしろくなければならないと思います。そして、何よりも重要なことにテレビゲームはおもしろいんです」(P.145、慶応大冨田助教授)
というようなテレビゲームだけでなくいろいろな教育を面白くできるように思っています。やはり
「そとはドラッグや犯罪だらけで危険だから、なるべく家の中に居させるため」(P.169、貧しい地域のどの家庭にもテレビゲームがある理由)
というような理由で、ゲームが普及するのは望ましくないし、そこは大人の別の責任で。大人に大事なのはゲームを一緒に遊ぶふりをして取りあげるのではなく、ゲームとどのように付き合うかを教えるだけの存在であるべきなのではないかと。
それにしてもゲーム産業ってのは
優秀な工業製品のイメージが日本という極東の島国と本格的に結びつくのは、「ウォークマン」「VHS」など、メディア関連のハードが一気に世界を席巻していった80年代以降のことだ。これに「ファミコン」をプラスすれば、80年代に登場したメディアの標準化戦争にことごとく勝利してきた国が日本であったことは一目瞭然だろう。(P.148)
というように日本の強さの象徴なのに、いまいち尊重されていないよな。
「生活に関係ない娯楽は、一番面白いモノだけが売れる」(P.69、任天堂の主張)