「スキャンダル」の記号論
まぁ、そりゃそうだろうとは思うけど、それじゃ人類社会はいかんでしょうがと思う。学問は状況を解説するものであって、べきだ論を提示するもんじゃないとしても、なんだか腑に落ちない感じの一冊。
例えば、
人間が何らかの集団を作れば、作家であろうが、学者であろうが、会社員であろうが、芸能人であろうが、ゴシップマニアが現われ、ゴシップ・スキャンダル・コミュニケーションが形成される(P.41)
というのは、確かに人の世の常でそういう傾向のある代物であることは認める。でも、だからと言って、
ジャーナリズム的記事がスキャンダリズムの文脈で読まれている(P.190)
ということを許容して、結果として
大衆の相当の部分は、民主主義という政治形態の「お客さま」なのである。(P.189)
という状況は許容していてはいつまでたっても愚衆愚民な状況は変わらないのではないかと。
ジャーナリズムは、コミュニケーション・メディア機能全体に対して、支配的でメジャーな機能ではなかった(P.183)
その元凶の一つがこれなのであれば、、支配的なメジャーな機能になるためにはどうするべきなのか、をちゃんと考えてしかるべきなんじゃないんでしょうか。