子どもの権利条約 学校は変わるのか
「この色は世間に私は馬鹿です、と言っているようなものだ。」(P.24、底辺校の生徒の制服の印象)
全編通してというわけじゃないけれど、自分の体験と重なるような内容があるなと。
僕も思いもよらない、形で、いわゆる底辺校というものに通って、こういう思いをさせてもらったことがある。まぁ、冷静に考えれば、この辺の体験は、なるほど、人権に関してみればあっちゃいけない問題でろくでもないことなんだろうけど、僕自身、これがばねになっていまの自分になったところは否定できない。
学校の名前でそこの生徒の人格までも評価してしまうような社会的風潮に子ども・青年たちもいつのまにか深く巻き込まれている(P.24)
とはいえ、この感覚で過ごした3年間は正直心ではつらかったよな。と、同時に転校してそこで体験した生徒会活動はまさに、本書の「意見を表明してく生徒たち(P.43~)」の内容に重なって、実に懐かしいぐらいの感覚だ。こうして読むと、無責任のようだが底辺校のほうが、先生のリード次第で色々学べていいんじゃないのかと思う。
とはいえ、今の子どもを取り巻く環境はそのレベルじゃなかったりもする。
休養と栄養とは子どもの保護のもっとも重要なものの一つである。(P.18)
なんてことを書かねばならぬような状況は悪化していく。で、大人は大人で
実際に教師や親が、子どもの自由な表現の意味を、時間をかけてゆっくりつかむことができない、労働条件におかれていることである。(P.17)
こんな言い訳を平気でするようになってきたわけだ。そんなもの自分で解決しろ。時間を作る努力を正しくしてますか?
生徒理解の基本は地域や父母の生活の理解から始まるものだ。(P.36)
という、当たり前のスタンスですら、個人情報保護を盾にやらない、やらせないという人もいる。
でも、企業経営と一緒で、学校も地域も
「問題が起きたことに感謝して指導しよう」(P.64)
という姿勢がいいのではないかと。
あらためて子どもの権利条約を見て
子どもの最善の利益が、親または後見人の基本的関心となる。(P.187、第18条の1の一部)
と言うのはいいんだけれど
親または子どもに責任を負う他の者は、その能力および経済力の範囲内で、子どもの発達に必要な生活条件を確保する一時的な責任を負う。(P.191、第27条の2)
能力の欠如で、子どもの最善の利益が関心事にならない親はどすればいいのでしょうか。能力の範囲でしか、生活条件を確保しないのですけど....。
まぁ、とにもかくにも。
大人が解決できない人権の問題を子どもに期待するのは虫がいい(P.129)
ということでしょうね。