北海道百年

明日をどうする――それを自らの胸に問いただすことによって初めて、"百年"の意義もふくらんでくるであろう。(下P.328)

百年を半年で読める上中下巻構成の名著。明治の頭から戦後すぐまでの北海道の一大史を、トピックスの積み重ねで記述。ちなみに、僕が生まれる前の本で、一冊460円です。物価感もしのばれます。
内容は北海道フリーク必読書です。いろいろコメントをしたくて、いろいろと抜書きをしたけど、さすが百年。余りにも膨大で、抜書きに首尾一貫したコメントのつきようもなく。

蝦夷松前には路傍に金が落ちてあると専らの評判で御座れば、己れ一人で拾い集めんとの目論見でござる。(上P.27、渡道目的を問われ)
  いまじゃ、北海道から出稼ぎなのに。

『みんな出てゆけ!貴様らのような人間は無用じゃ』/この一カツでせっかく発足した仮学校は廃校となる。(上P.82、開校して一年たった仮学校を視察した黒田)
  我が母校のもとの姿(苦笑)

閣下札幌ニ居リ、全島及ビ札幌ヲ指揮スベシ。シカラズシテ東京ニ居リ全島ヲ指揮セントス。不可ナリ。(上P.88、岩村による黒田批判)
  現場主義ですな

岩村判官は八尺位の白木綿に御用火事という旗を立て、自ら人夫を指揮してわら小屋を片っ端から焼き払った(上P.93、御用火事についての中山氏の証言)
  まぁ、○銀を潰したのはひょっとして現代の御用火事?

換金しようにもまだ買い手がないのだ。実りの秋も台なしだが、困り抜いて開拓使に買い上げを泣きつく。(上P.110、仙台藩士が大根を作って)
  販路開拓の苦労はいまも昔も一緒なのね。

酷暑ニ付、当分ノ内午後七時出頭、午後二時退庁ト更正候(上P.121、開拓使の勤務状況)
  サマータイムも良いところ。酷暑ってねぇ...。

『商売は人生の持久戦である。商ひは即ち"あきない"で、毎日飽きずに商ひを続けるの謂いである』(上P131、今井藤七)
  まぁ、べたな一言ですね。

『東京ヨリ札幌迄ノ運賃ハ桑港ヨリ横浜ニ至ルヨリモ高ク、且其時間ヲ費スノ長キハ何ゾヤ』(P.145、ケプロンの手紙)
  100年以上あとでAirDoが打破。

怠慢卑屈ノ風習ヲ改メ、各自其業ヲ励ミ早ク独立ノ民トナリ、上ハ国家富強ヲ輔ケ下ハ子孫ノ安全ヲ謀ルベシ(上P.172、明治9年の札幌の区長戸長への布達)
  こういう民人になれたかな。

北海道の状況が学生たちに植え付けたはずの"アンビシャス"だが、学生たちの大半はやがて道外に向かう。(上P.190)
  いまも昔も変わらぬ校風。

『長官自ら工業局製造場の屋根凡そ三坪程を葺かれ玉いしかば、付き従う書記官を始め属官の者ども其巧みなるに驚かぬ者なき。』(上P.209)
  へぇ。黒田さんといい榎本さんといい自分で手先動かすのがすきなのね。


天下り官僚が手みやげ代わりに持参したのがいわゆる"補助金"であった。(中P.15)
  百年たってもお家芸ですな。

ロクでもない在来馬がいるからウマくない。そんなウマ食ってしまえ(中P.29、馬食と馬質改良で)
  で、北海道の馬刺し文化。ひそかな人気なんだよなぁ。

北海道は囚人と屯田兵によって開かれた(中P.34)
  ある面での暗部。

屯田兵制度が発足したころを振り返ってみると、屯田兵は"憲兵"だった。(中略)屯田兵の役割を警<察活動にあり、としたのである。(中P.43)
  戦後日本のなんとか予備隊のよう。歴史は繰り返すですな。

自治自由の新人民とならんと欲するに当りては何時までも自ら卑しくして自ら屈するの時節にあらず(中P.75、明治25年「北海道新策」)
  この発言がいまも通用するのが悲しい。

当時旭川ではこれがピアノの第一号で、しかもただ一台きり。せっかく持ち帰ったもののひく人がいなかった。(中P.221、日露の戦勝土産)
  あらら。

余勢をかって山を下り、巡査派出所をダイナマイトで吹っ飛ばし、鉱務所、倉庫、巡視小屋、会社の役員社宅などにつぎつぎと放火。(中P.231、幌内鉱山暴動)
  激しい暴動。昔の労働争議は命がけだったんだね。

安田ホールで一杯三銭のビールを七十杯も"優美に"飲みほした農科の学生がいるげな、と話題になったのもいまは昔。(中P.239)
  のんべは母校の伝統ですな

北海道は明治の世に於て成功したるものの最大なるものにして又札幌農学校は北海道に於て成功せしものの最も大なるもの(中P.253、東北帝国大学農科大学昇格時の文部大臣の祝辞)
  べた褒め。うれしいですね。

中央役人の"腰掛け行政"批判が少なくなかったが、そこからは長期的展望に立つ"北海道独自の生活様式"への関心など生まれようがなかった(中P.268)
  いまからでも遅くはないので頑張りましょう。

北海道から吸いあげたものは北海道へ(中P.290)
  返せ。といいたいものは多いわな。


「あのように激しい労働をする人はいないし、第一法律がそれを許さない。(略)鰊はもうこないだろうが、それでよいのだ。」(下P.74)
  ポジティブに現状を捉えるのは大事。

営利職業紹介所の伝統と技術の前には抗すべくもなかった。(下P.94、公的職業紹介所の実情)
  あら。最近、こういうことしようとしてるけど攻守所を変えになってますね。

北海道の都市であると同時に日本の都市として、更に日本の文化と理想を代表しなければならぬ運命にある(下P.102、6都市の市制施行について大正11年の小樽新聞社説)
  この使命感はいまは昔。

赤くなったといっても、頭だけが赤い優雅な丹頂ヅルだったのだ。(下P.111)
  この共産主義はいまも一緒

何の移民招来ぞ/開拓者は眼前にあり(下P.150、拓殖計画批判。昭和9年2月旭川新聞)
  気持ちはわかる。先陣切って苦労したんだしね。

神恵内村で投票した帰途に凍死した老人がいたのは雪国ならではの普通選挙だった。(下P.161)
  有権者にとっての命がけの選挙。今は聞かない

『いまやカフェーは淫売の紹介所である!!』/その発言に付け加え、道会の速記者はきちょうめんにもこんなヤジを書き留めたものだ。(『実験済みですか』と叫ぶ者あり)と。(下P.173)
  のんきだ。

開拓者精神とは、道民を道外住民と識別するため役人から与えられた衣のようなもの。(下P.184、昭和6年からの郷土史教育)
  なんと、フロンティアスピリッツは国策キーワードだったのね。

彼は、漁民を漁業資本に縛りつけていた仕込み制を打破し、協同組合による資金調達に改めた(下P.239、三石コンブの功労者、斉藤篤氏)
  こんな偉人もいるんだ。不勉強でした。

この年四月、岩見沢と夕張に市制が施行された。(下P.299、アッツ島玉砕の年)
  意外と戦中も生活は動いていたのだなと。