イデオロギーとしてのメディア

彼女がいつの日にかこの本を手にした時、父親が書いていたものが、こんなにつまらないものだったのかと思われぬように努力したつもり(P.219)

内容はどうあれ、このあとがきの辞はとっても実感する。でも、実際のところ、こんなところからメディアの堕落は始まるのかもしれない。

マスメディアは何かを伝えようとするのではく、観客の期待に応え、観客が聞きたいことを連呼し、見たいものを見せる。(略)重要なのは、何を述べたいのかではなく、大衆の好みを見まちがわないことなのだ。(P.150)

大衆の一人は自分の娘でもあるかもしれないのだ。いわば、娘につまらないと思わせないものを書くということにこだわるということはひいては、マス迎合の始まりなのかもしれない。かといえど

自分の作品を納得いくように出版しようとすれば、妻子の命と引き換えにしなければならなかった。(P.120:藤村の破壊の出版)

ここまで鬼神のようなことはできない。だが、現実今の市場経済社会において、放送局は視聴者を広告会社に売り渡す道を選んだ(P.44)以上、メディアの内容を良くするかどうかは、大衆にかかってしまう。いわば、まじめな内容を受け取る「まじめな大衆」は存在するか(P.143)ということが問いではなく、当たり前に存在するものでなければならないのだ。
他方で、こんな大衆ばかりであるのだから、作り手が以下のような台詞をはいてもよいメディアになることが重要なのかもしれない。

群集は眼中に置かないほうが体の薬です。(P.141:漱石が芥川に出した手紙)