林蔵の貌

「ひとりでじっとしていると、雪の静けさの中から、何か聞こえて参りました。馬橇の鈴の音とか、雪の落ちる音とか。自分は生きているのだ、とそんな時に思うのです」(P.679:小夜)

北海道を舞台にした歴史小説。いわゆる史実探求肌の方には嫌われるタイプ。僕的には好きなタイプだけれども、この本をちゃんと理解しようと思うと、破軍の星から続く、北方室町小説から読破しないといけない。おまけに、そんなもの全部一気に読んだら、間違えなく心が胃もたれを起こします。
実は、この辺からの流れが、一応、この話しの動機になってきています。ただ、それはそれで置いておいて、北海道という大地を通じて、人が生きるということを考えさせるいいフィクションだと思います。
北の大地を独立国家にしたい人々が間宮林蔵を巻き込み、話がどんどん進んでいきます。特に、間宮を動かしていくのが水戸藩の狩野信平。

「一部ではなくしたい。蝦夷という国にしてしまいたい」(P.166:狩野)

と、語り真摯に動く。その動きは間宮は、自分が不遇だと思っている。実際そうでもある。不遇だから、淋しい(P.91)間宮の心を動かす。

自分が変わろうと、決めている。そのために、測量だけではない何かをやろうとね。(P.293:狩野、間宮に)
「俺には、国を思う気持などない。信平さんが、国を思っている。そういう信平さんと、一緒になにかやるのもいい、と思っているだけなんだ」(P.339:間宮)

そして、北海道という大地と立ち向かう中で、狩野自身も変わっていく。

武士は、土というものの意味を見失っているな。蝦夷地へ来て、山を拓いて小屋を建てながら、私はそう思ったよ。国は土の上にあるというのにな。(P.369:狩野)
自分一代で、できなくてもいいのだ。息子の代、孫の代にそれができてもいい。そういうつもりで、私はすべてを急がずにやる。(P.431:狩野)

そうして、アイヌの人々とも協調しながら地道な開拓を続ける。そこには、おかしな深慮遠謀も、他力本願もない。ひたすら、未来のための大地としての北海道と向き合い始めた人々が生まれつつあった。
しかし、これを利用しようという人々も。

「二人とも金などでは動かぬ」「狩野様は志。間宮様はなんでございましょうか?」(P.209)
昆布ぐらいで決めるというのなら、組まなくてよかったということです。(P.540:間宮の島津評)

そうして、狩野が死に、この夢は費える。まさに「思えば、あそこには夢があった」「あのころとは、違っていますよ、近藤殿。いまは、欲が渦巻いています」(P.822)という状態になってしまった。
もはや、間宮は北海道への情熱を失ってしまう。高田屋に

「日本がどうなってもいい、とは思っておりません。幕府はどうなってもいい、と思っているだけです」(P.521:高田屋)
「死ぬまで幻であれば、それは幻ではなくなります」(P.725)

とあおられても、結局乗ってこない。まぁ、エンドは本を読んでもらうということで。

ちなみに、あらすじを追ってやってきましたけど個人的に印象に残るのは二人の商人。間宮方の宇梶屋と一応敵対側の高田屋。

「お武家様は、自分で自分を骨抜きにされているのでございますよ。遣いもせぬ刀を差して、民に威を張っておられるだけに見えます」(P.77:宇梶屋)
「裏切らない、ということです。私が好きになった人たちを、たとえどんなに儲かろうと、裏切らないということです」(P.146:宇梶屋)
「商人と思ったことはない。金にあまり心を動かされたことがないのだ」「それが、まことの商人です。金は結果にすぎません。」(P.519:間宮と高田屋)
「商人でも、ほんとうの魂を持っている者は、澄んでおりますよ。金の勘定はしますが、決して金に眼がくらんだりはいたしません」(P.522:高田屋)
「金だけで動いていれば、やがて金に潰される。商人は金を扱うが、金以上のものを見ていなければならない」(P.734:宇梶屋)

金は結果でしかなく、何のための商いかを考えダイナミックに動く2商人。商売やっているものとしては、やっぱりこうでないといかんなぁと思います。

あと、ある種の探求物を追いかけているものとしては

地図を作る仕事は、金や地位には代えられぬ。高田屋が、金儲けに喜びを感じるのと同じことなのだ。(P.441:間宮、高田屋に)
これほどのものを、とも思うし、たったこれだけを、とも思う。(P.679:間宮、自分の作った地図を眺め)

というのは、非常に感慨があります。あと自分も自分の妻に時々思います。

小夜は自分を嫌っていないのかもしれない、と林蔵は時々思った。だからどうすればいい、ということもわからなかった。(P.517)

あと、老後はこうなっちゃうんですかねぇ。それは侘しいなぁ。それとも案外いいことなのかなぁ。

「心から会いたいと思う人間の数は、少ないものだな。悲しいことだ」(P.720)