青雲はるかに

「天空へ連れて行ってください」(中略)「この翼の折れた鳥にすがるのか」(上P.63)

中国の戦国時代に秦の宰相にまで上り詰めた、范雎の物語。ちなみに、范雎は沙中の回廊の主人公の士会の子孫。
だけれども名門から才人が突如現れる、という話ではなく、貧乏と放浪から彼の人生は始まる。で、彼が考えたのは学び問うということは、ほとんど金のかからぬことである。(上P.17)ということで、学問をしながら、放浪の方針を定める。放浪の中、一人の女性と出会う。そして冒頭の引用の言葉を交わす。小説としては、その女性とのかかわりとこの台詞を主軸に、史記で見える単純な復讐鬼で有能な人物ではなく、大志を持った男の生涯として展開する。

「女は人を男にするというより、男を人にしてくれる」(上P.80)
男の志を立たせてくれるのは、女である。(下P.110)

まぁ、今のご時世、志あるのは男だけかいと突込みがきそうではあるけれど、まぁ、志に必要なのは、ある面、恋人でも配偶者でも、異性の理解者なんだろうな。わが身を振り返ってかなりの実感があるし。そして、相方だけではなく

人は、師と主と友によって、かわるものか。(下P.52)

多分、著者に習えば、男は女と師と主と友でできている、ってことになる。まぁ、この4要素はいい人生おくれてるよなぁと、自分を省みてしまう。でも、花開かぬってのはよろしくないなぁ。まぁ、こんな大物にはそうならんとは思うけど。きっと、

「ほんとうの苦労はしなかった。いまになってそれがわかる。自信過剰の愚者でしたよ」(下P.56)

というのが今の自分なんだろうなと。なんとなく、この小説の描く范雎に自分の今までの人生をなぞらえてしまう。彼みたく復讐に燃えるところは無いけれど、それでも、僕の行き方をネガティブにとらえている人たちに、こういわせたい。ちなみに、本書のタイトルの由来でもある。

君が能くみずから青雲の上に致すを意わざりき。(下P.241、須賈が秦で范雎に)