時代を疾走した国際人 榎本武揚―ラテンアメリカ移住の道を拓く

世人にも明治最良の官僚と評された。(P.215)

榎本の評伝の中で、箱館戦争前後をバランスよく調査し整理した本。小説やら本はどうしても、明治維新という一事件があまりにも輝いていたため、箱館戦争前の話に重きを置きがちである。彼の生涯の事跡を考えれば、維新後の官僚として活躍の実績のほうが日本人にとって有益だった。
大体において、幕府の金で最先端の知識を得て、それを日本の未来のために役立てようと思っていたのだから、本人の大本の動機とも合致している。留学中に

化学の知識たるや、各種の学問および国民の栄を企図する上において真に欠くべからざるものなり。余は過日語り置きたる通り、帰朝の暁には之を我が国に紹介し、もって自ら日本の物質的利益の増進を計る責任を取るべし。(P.69)

と、世話になった教授に手紙を残しているのであるから、その志はきちんと達成できている。維新後の榎本の活躍を語る上では、牢獄期、開拓使期、公使期、大臣期の四つぐらいに分かれるのだろう。

牢獄期は科学者であり、技術者としての榎本武揚の夢の一番目は「蝦夷地の開拓と殖産興業」(P.117)で、明日をも知れぬ身であっても、その方向にひた走り、牢内はまるで研究所のような様相を呈してきた。(P.125)
そしてその成果を、兄に手紙で送り、それで商業せよとせかす。
「何事も今は商法が大事で、人に先んじなくては利益はない」(P.132)と。

その後、牢獄から引き出され、その才能を利用しない手はないと、北海道開拓に駆り出される。が、お抱え外国人との軋轢もあり、対ロ交渉のための公使として使われる。
で、対外的に役職をと。海軍中将に。
当時の海軍の階級においては、大佐以上のものはなく、少将も大将もなく、榎本が初めて中将となったのである。(P.181)
という実に異例な抜擢、というか結果としてそうなってしまった。対ロ、対中で公使として活躍、内閣せいを敷く段になったところで、逓信大臣に。このあと、ひたすら大臣業の生活。どっかの大臣で首になっても違う大臣にと渡り歩く。

文部省では
憲法で宗教の自由を定めている限り特定の宗教によって徳育の方針を定めるわけにはいかない。(P.218)
と、まっとうに制度整備に努めるが
「榎本は理科学には興味を有せしが徳教のことには熱心ならず」(P.219:文部大臣解任の理由)
ということで首。が、しかし、すぐに農商務大臣に。なんと、かの有名な足尾銅山事件のときの担当大臣なのだ。
「足尾鉱毒事件」と呼ばれるこの件を榎本は放置しなかった。(中略)榎本はこの事件の責任をとって農商務大臣を辞職する。(P.221)
で、ようやっと、大臣業から足を洗う。

晩年には東京農大の前身の徳川育英会内に学校を設立。その卒業生に講演。ある意味首尾一貫した彼の信念を披瀝する。

学術と実験とを以て、農業に属する各般の改良を図らば、その国家の富源を増進すべきこと、決して疑を容るべからず(P.270)