祖父・小金井良精の記

小学生の時、私が学校で作らされたペン皿であった。すっかり忘れていたが、私はそれを祖父にあげたのだった。祖父はそれを大学の自分の室にもってゆき、ずっと使用していたのだと知った。(上P.128)

残念ながら、私自身は祖父というものを知らない。不幸にして、物心ついたころには、母方の祖父も、父方の祖父も他界していた。なので、自分の父が自分の子供から見て祖父になった様を、祖父というのはこういうものかと思いつつ眺めている。
本書は、偉大な名文筆家、故星新一による彼自身の祖父の記録である。自分自身に祖父の思い出のようなものはないが、そういう事情で、なんとなく世の祖父像というものを構築するようになってから読み返している。

星新一という人間にとって、家にいない実業家の父より、家にいて面倒を見てくれる医学者(医者ではない)祖父と、文筆家の祖母に育てられた面は大きいのだろう。本書を通じて、明治と科学、祖父の愛情、というものがしっかりと伝わってくる。

家とはなんであるか。濃い血液でもつながらず、家風だけが伝えられていく。後世の目から見ると、まことに奇妙なものである。(上P.27)
原理というものは実在し、それはいかなる国においても通用する。(上P.34:佐久間象山の信念)
富国強兵は、結果としてあらわれるものでなくてはならない。原理についての教育をおこない、人材を作れば、ことは無理なく進展する。(上P.42:小林虎三郎の長岡藩の富国強兵策に対する批判)

長岡藩士の子として育った流れで、家の不思議と科学の原理というものの存在をなんとなく触れながら成人する。そして迷いながら、解剖学の道に進んでいく。最終的には東大の医学部の長にまでなる。実学としての医者の道ではなく、科学としての医学、その中の解剖学に進む。目先の利益を求めたがる明治の医学会の風潮に批判的なスタンスを取る。

臨床に関係ないからとの理由で、ドイツにおいても、利益を優先して考える医者たちは学ぼうとしない傾向にある。賛成できないことだ。医師が尊敬されるのは、ひろく学問を修めているからであって、これなくしては品位が失われてしまう。(上P.197)

と、やたらと固い教授の印象があるが、友人の子に対して

「そんなに行くところがないなら、おれの所に来い。解剖だと一生ぜいたくはできないが、あまり出来がよくない男でも、みな大学教授にはなれるらしい」(下P.177:森鴎外の息子に)

と、自分を謙遜しつつ人材確保に努めていたりもする。
引退後は、アイノに興味を抱く。数度北海道入りまでしている。人類学に解剖学的手法を持ち込み、あたらしい検証手法を使っている。

現在の日本人は、アイノとの混血の上に成立している。これが良精の自説だった。(下P.145)

晩年は、こうした研究をしつつ科学者としてのスタンスを確立する。

疑わしきは断定せず。仮説は仮説として提出する。そして、裏づけが出てくるまで、じっと待つ。(下P.208)
性急に不正確なものを発表するくらいなら、うもれたままにしておくほうがいい、そんな考えの持ち主であったようだ。(下P.219)

確実な知。これが小金井良精のもとめたものなのだろう。そして、功名ではなく真理という研究態度を持つことを求めていたのではないだろうか。その姿勢は、彼の退官後の講演「日本医学に関する追憶」に詳しい。本書にでてくる講演録引用を是非読んでいただきたいが、そこからさらに一部を引用して紹介を終わりにしたい。

清貧に安んずる。現実には口で言うほど容易なことではない。研究とは、注目されることの少ない、地味な仕事である。しかし、真理をめざし、思考と実験を反復するなかには、金銭でえられない味がある。(下P.342)