教育という病

市民が学校化してしまったときに、何が起きるだろうか。今度は学校が自らを変革しようとしても、市民の側がそれを許さないということが起こりうるのではないだろうか。(P.153)

ノスタルジーに固定化された保護者達ってのがこういう感じで機能している気がします。
学校はもはや地域という市民社会に組み込まれ、そして市民社会の方が数十年前の学校像のノスタルジーに侵されていて(本書のいうところの市民の学校化)、自分たちのノスタルジーを壊すことに大いに抵抗するという状態が今の部活問題でも何でも支配していると思っていたので、同じ危惧をエビデンスから積み上げて到達している本書の登場には大変驚きました。

それにしても近年、本書をはじめとして、ようやくちゃんとした社会調査をもとにした学校批評が出てきたと実感します。
狭い経験と思いこみで変な教育論を振りかざすTVに出ずっぱりの教師だの評論家だのの話を聞くより、本書を読み込むことの方が教育関係者には求められますし、保護者も地域社会の人もしっかり読み込んで理解するべきです。中高生ぐらいで分別が付いたなら、中高生にも読んでもらいたいです。自分たちの教育がいかにいい加減に思い込みで明治期の時代錯誤な価値観の延長で押し付けられているのか。そのうえ、その価値観のうち最も素晴らしかった

学校教育というのは本来、子どもの家庭環境を問わない場として設計されたものだ。江戸時代の身分制度を脱して、明治時代に今日につながる学校教育制度がつくられた。学校は生まれ(家庭背景)に関係なく子どもが平等に学べる空間として誕生したのであった。(P.106)

というのは、うち捨てられて思い込みと勘違いでの修正を繰り返された学校像の中で学びを強要されていることに気が付いてほしいと思います。まさに、大人の思い込みで、

「運動会の競技ごときで、なぜ、社会人より危ない目に遭わなければならないのか、筆者にはわかりかねます」(P.52、渡辺氏の高所作業における法令との関連の指摘)

暴力には、効果がある。そうだとしても、もうやめようではないか。暴力に代わる、効果的な指導方法を生み出すべく、みんなで知恵を絞ろうではないか。体育の専門家、教育の専門家、学校関係者は、暴力なしでどのような指導が可能か、追及していかなければならない。(P.129)

という風に、運動会や部活動などで命がけの何かを強制されているんです。悲しいかな、自分の身は自分で守るぐらいの気概が必要なんです。まずはしっかりとした現状を把握して、大人も子供もしっかりとした情報をベースに時代の教育をともに作っていくべきなんだろうなと思います。

実態把握なくしては、未来の理想も語れないはずだ。(P.9)