オレ様化する子どもたち

テレビの子ども問題の討論番組に出ると、参加者はコマーシャルになるとみんな口をそろえて「親の教育力が低下した」「親のしつけがなっていない」という。しかし、オンエア中はみんな学校や社会のせいにして親の悪口は言わない。商業放送であろうと、公共放送であろうと、視聴者の悪口を言うことは営業上できない。(P.227)

そんなコソコソしている大人ばっかりなのが透けて見えて、舐められてるだけちゃうのかね。と、思ってしまう。
おいおい、結婚記念日で妻の誕生日で愛知への移住記念日の読書がこれかいって感じ。深刻だな。
この手の教育批評本のなかでは、読むに値する部類に入るんだろうなと思う。僕自身も、

「校内暴力」を起こした中学生たちに一番がまんできなかったのは、管理が強まったことではなく、成績(偏差値)だけで人間そのものが判断されるかのような中学の受験体制ではなかったかと思う。(P.70)

と、暴力はしない人だったけど同じことを思って過ごしてきたわけで。たぶん、著者がいう問題は三つ。一つは、近代。

私たちは近代になればいい社会になると思いこんできたが、近代はそれほどすばらしい、人間にやさしい社会ではないということが見えてきた。(P.82)

なぜって

自分で自分を支えるということは、人にとって本質的に困難なことであるのかもしれない。(P.28)

という、支えあい主義の崩壊。また、これと表裏の、等価労働主義。これに抵抗するには

よく職員室で「能力の高い人がたくさん仕事をするのは当然だ」と大きな声でうそぶいていた。(P.94)

という程度しか個人としてはない。そして、恩の継承。いわばペイフォワードの精神。

子が親から受けた恩(「贈与」)を親が生きているうちに「返せる」とはとうてい思えない。親からもらって返せなかった恩を、自分の子に対して「支払」っていくのが人間の宿命であろう。(P.97)

これらのない、即時交換主義的社会、言い換えるなら近代社会を目指す姿勢が原因だと。で、国際的にそんな国は日本だけだと。

純粋で完璧な市民社会的な社会など(先進国の中の)どこにもない。また、どこも純粋な市民社会を実現しようなどとと思ってもいない。(P.91)

何でもかんでも、中央で価値観の統制できている金と情報。

私たちは、生活のすみからすみまでお金が入り込んでいる生活を、初めて経験している。朝から夜まで「情報メディア」から情報が入ってくる生活も初めてである。(P.221)

そんな中で、学校教育をどうしろッてんだとは思う。親としては、近代から脱却した次の価値観を目指すしかないのかね。それでも、今の目の前の自分の子供のためのアクションプランは作れないと思う。それが、また、事態の悪化を生んでいるのだと思う。

「教育改革」派の官僚や研究者たちは「だから、わかりやすい授業を」などというのだが、わかりやすくてもわかりにくくても、とにかく授業以外の要素で「授業を成立しにくくしている」事情があるのである。(P.165)


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