災害弱者と情報弱者: 3・11後、何が見過ごされたのか
市民もまた、ニュースに対する権利と責任を持つ。(P.177、「ジャーナリズムの原則」第十原則)
ソーシャルメディア時代の我々は、この原則を強く意識せねばならないでしょうね。
さて、本書はタイトル通りの災害弱者と情報弱者を311の東日本大震災の時の様々なデータをもとに、読み解いたもの。特に、ソーシャルメディアのログを最大限生かした分析は、私たちも同様の研究を手がけているので、個人的にものすごく興味深い。
他方で、情報弱者や減災を考える、日常の実践者としての学びも大いにある。
また、ソーシャルメディアを基軸とする会社のマネージャーとしても、学びと同時によく考えなければいけないことも突きつけられる。例えば、
インターネット上には多くの情報が流れ、なかでもツイッターやフェイスブックなどのソーシャルメディアは大きな力を発揮しましたが、同時に、震災前にこうしたソーシャルメディアに関する十分なリテラシーを獲得できていなかった人々にとっては、かえって不安を高める結果になった(P.11)
仮にウェブの情報にしか触れない市民が存在した場合、その人々は、より多様な情報、多様な意見の存在い思い及ぶことなく、ある争点のみに関心が偏ったり、ある意見のみに支持が集まったりすることが考えられます。これは、私たちが情報の中にどっぷりと浸かっているにもかかわらず、気づかずして「情報弱者」になってしまう可能性を示しています。(P.142)
「ウェブの自由な発言空間にこそ真実がある」と考えてしまいがちな向きにとっては、「情報空間全体をできるだけ広く把握し、その成果を人々に公開する」という、マスメディアのジャーナリズムとしての役割を再検討・再評価する必要があります。(P.151)
という、アンチマスメディアという意識が強くなるあまり、ソーシャルメディア空間にばかり頼り、マスメディアの機能や力量をしっかり見直す機会ともいえる。
研究の視点に置いても
被害が持つ、そして被災された方々が抱えているさまざまな側面を数字という一側面からのみ見ることについての暴力性については批判を免れないものであります。(P.40)
あらゆる情報は良かれ悪しかれ観測者の視点を含むものであり、それから逃れることはできません。(P.175)
ということは忘れないようにしなければいけない。ただ、一番大事なのは
災害をめぐる情報流通、ジャーナリズム、コミュニケーション、いずれの視点においても、そのような「災害弱者≒情報弱者」への視点は必要不可欠です。(P.76)
原発事故は実質的被害と同時に、「社会的な関心リソースの収奪」という、もう一つの被害をも生み出したと言えるのではないでしょうか。(P.88)
のような、偏りかつ少ない情報下で、苦しんでいることを自覚せずに危機にさらされている人と、どのように寄り添って日常を過ごせるのかを考えなければいけないということなのだと思います。その日常の付き合いが、災害時に多くの人を弱者の側に回しにくくデキるチャンスなのではないかと。