伊勢詣と江戸の旅

「その(皮袋を取りに戻った)骨折り賃として何銭かあげようとしたが、彼は、旅の終わりまで無事届けるのが当然の仕事だ、といってどうしてもお金を受けとらなかった」(P.200、イザベラ・バード)

日本の美徳だな。いま、こういう仕事をする仕事師はどれぐらいいるんだろう。
ちょっと仕事で巡礼市場を調べるのに購入したうちの一冊。内容的にもなかなか面白い。日本におけるお金と祭祀を見るうえでも。でも、やっぱり気になるのは旅路のいろいろなものとお値段。

一泊するのに二四日分の労働が飛んでしまうのだから、個人では考え込んでしまう金額である。(P.31)

伊勢にくると必ず一泊はするし、ゆっくりするものは四日も五日も滞在する。宿泊施設が多かった所以だろう。(P.84)

宿はこんな感じで

ここ(金剛証寺)に来たほとんどの参拝者が買っていったのが万金丹。その本家の野間家が金剛証寺の下にあった。(P.100)

「勢州松坂の鷲穂丸、子供によし。朝熊岳の万金丹も同様なり」(P.133)

土産物はこんな感じ。で、伊勢でのお食事は

繊細な味を出そうと苦心するより、品数や量で圧倒するような料理が出されたことは確かなようである。(P.38)

というかんじでも、当時の庶民は大満足。自分でいけない人でも

一日一文(九円)ずつ貯めれば一年で三五四文(三一八六円)、それを五年間続けると一貫七七〇文(一万五九三〇円)。これが村人に代わって伊勢松坂の世古藤助と佐波安輔が伊勢神宮に参拝・祈祷してくれる値段である。(P.112)

で他人に頼ったり

いざ抜参りしたとわかると、親は引き戻そうと大声で呼ばわって追い掛けるが、本当に追いついたり、引き戻したりすることはなかった。そういうそぶりをするだけである。(P.28)

というように自分の子供が出て行っても、応援するという話。しっかし、事実上の内戦の間でも

文久三年は(中略)明治維新に向かって混乱のきわみだった頃なのだが、こんな時にも多くの庶民は、騒ぎを横に伊勢詣を楽しんでいたのだから痛快である。(P.137)

という始末。立派なもんだ。でも、こまめに金は取られるし

「ここより段々小川、銭取る橋有り。(略)銭取はし八橋有。水なき故に瀬越え仕り候。雨つづきには京道よし」(P.144)

名所はつまらんこともある。

「おとにきく三河の沢にきてみれば田ばかりありてかきつばはなし」(P.169、江戸時代の狂歌。知立のこと)

見たいにね。でも、日本はやっぱりいい国なんだよ。つつましく旅をすれば困らない。こんな国であり続けることを大事にしたいな。そういう視点で観光立国を目指せば良いのに。

「ここ(日本)では私は、一度も失礼な目にあったこともなければ、真に過当な料金をとられた例もない」(P.179、イザベラ・バード)

旅の初心者が侮られてしまうのはしかたない。しかし身を慎んで旅をしていれば、不当な扱いをされることは少なかった。旅の心得はそれに気がついた先人の大きな教訓で、現代の旅行にも十分通じることに改めて気付かされる。(P.231)