若者殺しの時代

自分たちでまだ稼いでいない連中に、次々とものを売りつけるシステムを作り上げ、すべての若い人をそのシステムの中に取り込み、おとなたちがその剰余で食べてるという社会は、どう考えてもまともな社会ではないのだ。まともではない社会は、どこかにしわ寄せがくる。それが21世紀の日本の若者だ。(P.46)

実に考えさせられる一冊でした。Twitterで流れていて気になったので買ってみた本。
いかにして、失われた10年が生み出されたかを、超ミクロの視点から描いています。その分、自分の中でも実感がたっぷりです。是非とも一読下さい。なんとも、抜き書きだけになって、解説なしになるんですけど。
だって書いたら、すごく問題になりそうな解説しか出てこない。
以下は自分用のメモ。みなさん、必読です。買って読みましょう。

1980年代に、いくつかのことが用意され、いくつかのものが葬られ、いくつかのことが動きだし、いくつかのものは永遠にあと戻りができなくなった。(P.6)

ワイドショー一週間ぶちぬき放送を頂点として、「あなたはもう『一杯のかけそば』を読みましたか。もう泣きましたか。もう感動しましたか」という報道が続いた。あきらかに、たがが外れていた。(P.17)

日本のオトナの世界は、小学校の小さな教室がいくつも集まって成り立ってるようなものなのだ。小学校の教室で起こったことと同じことしか起こらない。(P.24)

毎年毎年拡大して言った根拠は「みんな一緒だから」だけだった。国中あげて間違ったことはやってないだろうとおもってたのだ。(P.30)

つまり、バブルは貧乏人の懸命のお祭りだったのだ。/貧乏人が無理をして必死で遊んでいたのがバブルである。(P.35)

若者の世界がどんどん広がり、若者の居場所が広がったように錯覚した。でも、本当は若者という分野が作り出され、欲望を刺激し、商品を並べ、金を巻き上げていくシステムが動き出しただけだったのだ。(P.82)

80年代をとおして、僕たちは僕たちの共同体の抱いていた幻想をひとつずつバラバラにしてお金にしていったのだ。何だってバラバラにできるし、何だってお金になる。それが面白かったのだ。(P.92)

マンガの無駄な部分を嫌い、おたくを切り捨てていった「若者に消費をすすめる社会」は、90年代には恋愛ドラマを売り出す。90年代は恋愛と携帯しか売られなかった。そして恋愛と携帯からは、何も生まれなかった。(P.124)

それ(若者への寛容さを許容しなくったこと)は、戦後生まれの世代とそのあとの世代が、まったくおとなになろうとはせず、いつまでたっても自分たちが若者のつもりだからである。上の世代がおとなになって、おとなを演じてくれなければ、10代や20代の若者は、若者にさえなれないのだ。(P.133)

90年代は、男性はヘアヌードに夢中になり、女性は恋愛ドラマを熱心に見続けた。(P.139)

僕たちは、もう、携帯電話を手放しはしない。ゆるやかに不幸になろうと、この便利なツールを手放すつもりはない。(P.153)

若者の可能性と対峙できない社会は、若者を、ゆっくりと殺しているだけでしかない。(P.157)

個人情報を出し惜しみしているうちに、どこともしれない機械の向こう側としかつながらなくなってしまった。(P.161)

五十年かけて作ったシステムを、誰も手放すことができなかったのだ。(P.188)

若い人が居場所を確保する可能性は二つ。/一つはこの社会を破壊すること。/もう一つはこの社会から逃げること。(P.192)

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