指揮官の決断 満州とアッツの将軍樋口季一郎

「日本の歴史家は、日本の負け戦しか書かない。北方でソ連軍に勝った戦闘には、ほとんど目を瞑っている。それはそれで不自然なことだし、非常に残念なことだ」(P.234、孫に。)

アッツ島玉砕の悪名高い司令官、とされている樋口中将。たしかに、近年称揚されている栗林中将は硫黄島で部隊と共に全滅を選んだわけだから比較されるってのもあるんだとは思う。でも、実際は、単にアッツ島の将兵を無謀に散らせたわけではなく、

「アッツ島への増援を都合により放棄する」(P.190、大本営より樋口へ)

といわれて、やむを得ずであり、それも一方的ではなく、近年の戦史の見直しで絶賛されているキスカ島撤退作戦とセットだ。

<私はそこで一個の条件を出した。それは「キスカ撤収に海軍が無条件の協力を約束するならば」と云うにあった>(P.194)

戦争と言う状況そのものを悪とするならいざ知らず、指揮官として優秀か否かという点でとらえるなら、こうして一定の戦力を残すことで、

樋口の懸念は現実のものとなる。ソ連は銃を置かなかった。樺太での戦闘は継続され、それどころか、ソ連軍最高統帥部は千島、南樺太への侵攻作戦を新たに発令した。(P.225)

という事態に対して、

「断乎、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」(P.227、占守島の戦いへの指令)

断固として指令。まさに

キスカ島からの帰還部隊は、その後、千島第一守備隊の根幹兵力となった。彼らは終戦期、戦後日本を左右したといっても過言ではない戦闘に巻き込まれていくこととなる。(P.205)

という形で、占守島での侵攻を完全に撃破し日本の形を守りきったわけです。北部方面司令官としては実に正しい判断だったのではないかと。

他方で人道主義者としての樋口氏も注目に値する。ドイツに傾倒する陸軍内にあって、上官の東条英機に

「参謀長、ヒットラーのお先棒を担いで弱いものいじめをすることを正しいと思われますか」(P.148、東條に)

と。で、

救出劇はもう一つ存在した。杉原のビザ発給より二年も前にあたる一九三八年(昭和十三年)三月、満州のハルピン特務機関長だった樋口李一郎は、ナチスの迫害からソ満国境の地まで逃げてきたユダヤ人難民に対し、特別ビザの発給を実現させた。(P.9、オトポール事件)

こんなことをしでかしたわけです。当然

彼は自身が下した決定の中で、その後に起こりうる自らの失脚の可能性について、十分に覚悟していた。(P.27)

けれども、軍略家としての樋口の才能は、結局誰も切って捨てる勇気はないのでしょうから、組織の中でもちゃんと生き残るわけです。ただ、この樋口の救出劇は、2万とも3万ともいわれているけど、この一回でこの数字と言うことではなく

「ヒグチ・ルート」は、一九三八年三月の後も続けて使われている。(P.132)

というように、樋口が作った制度のもとしっかりと救出され続けたということなんだと思います。単なる一時のスタンドプレーではなくそこまで落としこんであったことに驚嘆します。でも、遺族は

「オトポールの話なども一度も聞いたことがありませんでした。実の娘である私でさえ、難民救出の話を知ったのは、実は父がなくなった後のことなのです」(P.124)

という感じで、戦後そんなことを誇ることもなく生きていたようです。「アッツ島玉砕の司令官」の一言で思考停止せず、人物をしっかりと見るってのは取っても大事だってことです。道産子としてこういう方が北部指令だったからこそ、今生きてるんだよなと、素直に感謝の念が湧いてきます。当然、指令に従って戦った多くの方々についても。

「樋口という人物がいたことを、日本人はもっと知っていていいと思います」(P.10、歴史学者シロニー氏)

「彼ら一人ひとりは良いのだが、国家となるとあんなに危険な国はない」(P.60、孫に語ったロシア観)

「学校の算数なんてやらなくていいよ。計算なんてブリッジで覚えなさい」(P.107,子供に)

後年「もやもや病」と判じられる(P.111、次男の病)

<私はそれこそ「方面指導」に過ぎないのであった>(P.137、樋口氏の回想録)

自らが抱える師団や大隊の利益を優先する将校が多い中で、樋口のこの(部隊の一部を他に出す具申をする)決断は注目に値する。(P.217)

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