ハイパー・リアリティの世界―21世紀社会の解読
相互の会話もなくゲーム機に没頭する分断された人間の集合。しかし、彼らは実はディスプレイの向こう側の世界を共有している。(P.137)
相互に会話がなく一つの部屋で、ゲームをしたりマンガをしたりしていた時代が僕にもあった。ディスプレイの向こうの世界を共有していたとは思わないが、何かを共有していた実感はある。そういう、媒介物としての一人プレー用のゲームやマンガの機能を評価している人は少ないのではないか。
そういう機能から読み解かないと、21世紀の社会の解読は難しいかもしれない。確固たる社会の枠組みではなく、こうした緩い何かを軸にした共有感が創出する社会。それが21世紀のコミュニティであり、社会構造なのかもしれない。
社会構造の基本が機能の組み合わせで、その機能が機能するというのがポイントだというのではなく、共有という機能を持つ何かを軸にして構成される社会構造。この共有という機能がシステムの軸なら、それはそれぞれにとってべつの意味を持ち、恣意性の塊である。そんな恣意性そのものを内在した機能は
機能単位に恣意性を認めることは、システム全体の信頼性を低下させ、結果として「システムの死」をまねく。(P.48)
と、言うように近代では死に絶えるべき機能であり、社会構造を構築しえないのだ。しかし、実際にそういう共有を元に、社会の何かが出来始めているように思える。とはいえ、他方で、社会の機能分化の進展により
人々をとりまく世界は、常に人の側に待機して、人々にメッセージを送り続ける。(P.46)
のように、待機している機能に対して、人々は王様のように振舞える。こうした個の分断された烏合の衆による社会構造変化も進展しつつある。多分、21世紀の初頭のいまは、構造の分裂とそれによる個の分裂、そして分裂した個間の共有の繰り返しなのだろうな。その未来がみえるようで見えない。この本の21世紀の解読が当たっているかどうかは判らない。でも、これは当たっている。
不確実性は、大きすぎてもいけないし、少なすぎてももちろん好ましくない。人間とはかくも厄介な生き物なのだ。(P.111)