自分を変えた怒り方
変な話、この私はある面でやたら図太く、普通に怒られたところで、馬耳東風でさばさばしている。それが怒っている側の怒りを更に買うわけだ。それ自体はもうどうしょうもない。そもそも、ほとんどの場合、怒っている理由を知らないわけではなく、100も承知でそういうスタイルなんだから反撃するか馬耳東風な感じで謝るぐらいしか出来ない。
ついでにいうと、こういう天邪鬼な性格のなので、怒って僕を動かすと言うのはほぼ不可能。僕になんかやらせたいという人は、原則頼み込むと言うのが基本。札束も、社会的地位も、怒りも基本的には効きません。場合によっては仕事の都合上の手作業的なことぐらいはしますけど、人としての本質は変わりませんし、変えません。
で、そういうことを書きたかったということではなく、こんな僕でも怒られて変わったことが3回あります。あ、社会人になってからですけど。
一回は、放送局にはいってから。実は僕自身、自己否定が自分の思考の基本なので、提案を出しても常におどおど。ちょっと突っ込まれたらすぐ引っ込めちゃうという姿勢。当然、高校時代のトラウマが若干あるので、自分は無知で愚かであるという姿勢は抜けないわけ。
暇さえあれば「もっと勉強しろや」とデスクらにののしられる日々だったわけだ。ある日、先輩がうちに遊びに来て、うちにある本(読書日記の本のほとんどは大学時代に買って読んだもので、この当時から書棚に並んでました)を眺めて「これ、全部読んだのか?」といわれて、正直に読んだといったら、おもくそ怒られた。
「こんだけものを知っていて、不勉強のように振舞うのは、謙遜ではなく、ただの卑屈だ」と。こんな形で自己肯定されたの初めてだったので、ちょっと衝撃だった。おどおど感は抜けませんでしたけど、まぁ、結構ものをいうように頑張るようになりました。
もう一回は結婚してから。結構新婚時期だったと思うんですけど、「どうせ僕なんてバカだし、かっこよくもないから、ごめんね」という趣旨のことを話したときに、家内に烈火のごとく怒られました。
「あなたに自分がバカと言われたら、好きになった私もバカだってことじゃない!バカにしないで!」
と。
もう一回は独立してから。平穏無事な夫婦ではないのでケンカは日常茶飯事なのですけど、ある日、生命保険と医療保険の検討を保険屋さんと夫婦で一緒にしているときに、突如怒られました。
「なんで、死ぬことを前提に話するの!勝手に死なないでよ!」
と。あのー、生命保険ってのは死んだ後の家族の生活設計のためにかけるものなんですけど、医療保険以外掛けちゃダメですか、と思いつつも、僕という対象が存在していないということを前提することする許しがたい、ましてや、それをその本人が考えるなどもってのほかという姿勢。結婚している間は、うかつに自己の存在否定すら出来なくなりました。
でも、この三つに共通しているのは、僕自身の思考が自己否定にあるということに対しての怒りで、先方は僕を肯定してくれていることの表れ。うかっとすると、自己否定の海に心が沈んでしまう性格なんだけど、肯定してくれる人がいるということ忘れないように頑張らないととか思うわけだ。でも、そういういう怒り方のできる大人になりたいな。でも、そうなるためには、きっと自分がしっかりと自己肯定できないとダメなんだよね、きっと。