仲立ち業って
起業して今まで、数多くの人の仲立ちしてきた。うまく行くこともあるし、うまく行かなかったこともたくさんある。
当然、うまく行けば両者に感謝される。で、失敗してもさして恨まれることはない。ある意味、成功したら得をして、失敗しても恨まれない気楽な商売ともいえたりする。でも、仲立ちをするこっちとしては、うまく行きゃ嬉しいし、うまく行かなけりゃそれなりに凹む。
当然、よく仲立ちもされるわけだが、紹介された人とうまく行くと嬉しいし、うまく行かないと自分の力量不足もあるので、大変申し訳なく思う。
うまく行った仲立ちの特徴として、必ずあるのが、共通の知人がいるとか、共通の知人の知人の知人だったりするとか。で、思うのだが「実は自分が居なくてもいつかは繋がるのであって、たまたまそのタイミングに自分が居たに過ぎない」ということである。自分じゃない共通の知人がつなぐ可能性だって存在するわけだ。もっといえば、つないだあと、それを形にするのは、相互の努力であって、仲介者が頑張れることなんざ、本当にわずかなことでしかない。というか、偶然そのポイントに立っていたという程度のことであって、それ以上のことはほとんどないとか思う。
実は、もっとちゃんとした仲立ちというものもあって、自分がそれを知らないで、かつ出来ていないということに過ぎないのかもしれない。でも、そうだとしても、仲立ちをする人の力量より、仲立ちされた後のその両者の努力と比べれば、そんなものは高が知れる。というか、そうでない2者の力量を使った何かというのは、仲立ちではなく、もはやプロデュースというものであってその2者はそのプロデュースに乗っかっているに過ぎない、ということだ。そんな力量は少なくとも自分にはない。
多くの人が僕の仲立ちを感謝してくれるし、それ自体は大変嬉しい。昔はそうした仲介を誇っていた時期も少なからずあった。ただ、仲介という現象が、あくまでもその偶然でそのポイントになっていたに過ぎない、ということを考えるようになると、最近、その程度のことでしか、こうした人達に貢献できていない自分の非力を痛感する。
仲介ではなく、もっとしっかりと世間と関わる業をしていけたらと思っている今日この頃だったりする。