地産地消とお土産

BLOGの方で、ちょっと議論が出たので地産地消を考えてみる。
宇宙人さんがコメントで「中国産の落花生で種子島の特産品を作っていたなんて」と主張しているように、種子島の特産品を元にお土産を作っている場合、やはりその土地の材料で作ってないとなんだか不当な感じもしなくもない。
個人的にも、六花亭の社長の「道産小麦に出番はない」のコラムは、いかがなものかと思う。文字通り受け止めれば「自分たちの作りたい味が作れないからダメ」という主張なので、「地元でとれるもので最善の味作りはしないんですか?」と反論のひとつもしたくはなる。

ただ、地元の伝統産品は地元産の材料でなければならないか、というと、それはどうかと思ったりしている。端的に言えば、地元産の材料に固執しなくてもいいということもあると思う。

一つは、さまざまな社会的理由で、その土地でその特産品のための材料を一切作らない、もしくは作れなくなった場合。たとえば、薄荷を生産しなくなった北見で、薄荷関連のおみやげ物を製造すること。これらは、充分に地元の産品といえると思う。
もう一つは、作ったときからそもそも地域外のものを使って作っていて、それが継続しているものや、何らかの理由で材料をシフトし、それが消費者の支持を受けてしまったもの。たとえな、森のイカメシなんかがその代表だ。あのイカは北海道産ではないが、北海道産に戻すと味が変わったということで、消費者にリジェクトされたものだ。
もっと言えば、北海道で(というか日本で)カカオは取れないが、チョコのお菓子は花盛りである。
こうして考えると、必ずしも、地元の材料を全部使うことがいいお土産の条件ではない。

地元産の材料を使っていないお土産というのは、実は結構日本全国どこにでもある。
もっと言えば、おみやげ物は、おみやげ物であるという時点で本質的に地産地消ではない。最低でも地産他消だ。
お土産で重要なのは、どこで買ったかであるし、その買った土地で作られていることがハッキリしているものが、お土産たる資格だ。加えて、それがそこで作られている(売られている)合理的理由があることがさらに言えば望ましいということに他ならない。

その合理的な理由の一つが「この土地で取れるものが材料だから」というのは、最も分かりやすい理由に他ならない。でも、この理由は可能な理由の一つでしかなく、北見の薄荷関連菓子のように「かつて北見は薄荷で経済支配をするぐらい薄荷の製造が栄えていたんだ。だから薄荷の消費方法も多様なんだよ」とかも充分、旅人の心をくすぐる合理的理由だろうし、富山で昆布を使ったお土産があれば「昔は個々はコンブ交易の中心で栄えたんだよ」でも充分通用する合理的理由だろう。

こうした合理的理由が重要なのだ。何の脈絡もない新しい作物を突然植えて、この作物でお菓子を作って「地産地消のお菓子だから買え!」といわれても、旅人は困ってしまう。旅人はこの土地で根付く覚悟できているわけではないのだ。

地産地消の本質はあくまでも、別のエントリーで書いたように、この土地で生きるという覚悟そのものだし、浮ついた経済上の設け話とは本来無縁なものである。そこのラインを履き違えると、欲しがらないお土産の量産という最悪の事態になりかねない。

お土産に大事なのは「そこで作る合理的理由」。で、地産地消で重要なのは「その土地で生きる覚悟」。この違いを良く捉えて「地産地消のお土産」という本質のずれたものにこだわらないように心がけることが大事なんだなと。その重なり合う領域のものを作ることは構わないけど、その重なり合う領域は土地土地で違ってくるはず。