知と言葉

最近、上の子の歯が抜け始めた。なので、歯に関する話題が多くなってきたのだが、下の子は、「歯」ということが出来ず、必ず「はが」と歯のことを呼ぶ。なので「歯が抜けた」という文章は「はがが抜けた」という表現になる。
実は、上の子もこれぐらいのときの年齢には、血に関する話題で、「血」ということが出来ず、必ず「ちが」と血のことを呼んでいた。なので、「血が出た」という文章は「ちがが出た」という表現になっていた。
こういうのを見ていると、「が」という助詞という概念は、案外早くに獲得できるものの、単音の名詞から上手に単離するってのは、結構難しいんだなぁとか思う。概念は獲得できていても、表現系は上手にコントロールできるまでにはずいぶん時間が掛かるものだと実感する。

こんなことがあって、最近、センターの奥様から振られた話題で、知能指数ってのがある。要は、その方のご息女が、知能指数の検査で低い値だったということで、それってどうよってことらしい。
知能指数ってのは、手っ取り早く説明すると、想定年齢であれば、本来きちんと概念系と表現系を獲得できていて、その年齢になった時点で、その表現系をテストで確認してどれぐらい解けるかを図るものである。その年齢に関する標準的問題を皆解ければ100。加えてそれ以上の年齢を対象にした問題で解けていれば100以上。標準的問題を十分解けていなければ100以下。
というだけのことである。ちなみに、僕は、その昔測定したときには80ぐらい。

でも、これは所詮その程度の問題なので、多分、うちの娘は概念系として、血や歯は獲得しているので、十分に知能指数100たり得るだろうけど、表現系で「~が」を分離できない(付加は出来る)ということで、100にはならんということ。テストなんてそんなもんだ。
二人も子供を育てると、こういう知能指数議論のベースになっている、ピアジェあたりの認識の成長過程ってのもあんまり当てにならない。「~が」ってのは、細かいことにしても、彼が言うような順序で、必ずしも子供は認識を獲得していかないし、複層的に獲得していくものである。
とすると、シーケンシャルに獲得することを前提として問題を組んでいる知能指数という考え方はそれほど当てにならない。ので、一喜一憂するのはどうかと思うし、テストをすること自体どうかと思う。

でも、知能指数って大人にやるとどうなるんだろう。20歳も過ぎれば、物理的認識的に差は出ないはずなので、20と40と60をどうやって区別するのやら。顔色を見て、相手の考えてることが分かるかとか、どうやったら相手をだますことが出来るかとか。その辺の手法テストをやれば、知能指数ってのも死ぬまで議論できる概念になって面白いかも。