あの時間はどこへ行ったの
ふと、センター職員の人生の先輩と話をしていて思ったことなんだけど、家事労働に関しては、自動化によって飛躍的に効率化され、時間が出来て家事にかかる時間は減っているはず。で、その減った分だけ、家族のふれあいとか、子守りの時間を獲得できるようになっているように思う。しかも、少子化で、理屈の上での子どもにかけられる時間は増えているはずなのに、現実問題として、親子のふれあいは減り続けて問題視されているわけだ。
それって、その時間はどこへ行ってしまったんだろう。一般には、みんな親が自己都合の時間に使って、子どもに時間を割り振らないとは言うんだけど、実際に、世の親はなぜかみな忙しそうで、遊びほうけているが故のネグレクトというのも特殊事例のような気もする。
結局その時間分働いたりなんだりと、カネを獲得するための時間などの子どもに向き合う時間以外の時間になって、そのカネで塾だナンだと子どもも一緒になって忙しくなっているわけだ。
思うに、省力化してしまった家事労働は実は必要な労働だったんじゃないかと最近思う。家事労働が大変だった分、家族で共に家事労働をする必要性が会って、親も子も共同の作業を通じて、家族の帰属意識が芽生えたんじゃないんだろうかと。
実は、このミニマムな単位の共同体経営こそ、共助や公益意識の芽生えなんじゃないかと思う。J.S.ミルの言うところの「共同の利益のために共同の仕事に従事することがなければ、隣人は味方でも仲間でもなく、したがって敵に他ならない。(世界の名著〈49〉P.405、代議政治論、ミル)」といのは家庭でも一緒で、家事労働ってのは、子どもにとって、共同の利益のために共同の仕事に従事することであって、その体験を通じて、社会全体における帰属意識の礎なんじゃないんだろうか。
とはいえ、いまさら家電のない家事労働の大変な社会に戻れるとは思わない。けれども、別々に金を稼いで別々に使う、そのために時間を消費して忙しくなるなんて言う、ばかげた事態は、とりあえず解消したほうがいい。子どもの習い事を減らして、自分のパートの時間を減らして、残業の時間も減らして、共同に出来る作業を一緒にする習慣を作るべきだ。それが社会の礎になるはずなんだから。
パートや残業の数時間でもらえる程度のはした金なんてくそっくらえだ!と思い切るべきだ。そのはした金のせいで、失うものが大きすぎる。子どもの将来にとって、そのはした金で買える塾での学びで得るものよりはるかに大きなものを失っているはずだ。