バカ親を笑いものにしても何も変わらんでしょ

最近、PTA会長なんぞをやっているおかげで、色々な講演を聞く機会がある。いつもは話す一方なので、こういう機会は自分の充電になってありがたい限り。ここのところでも、PTA研究大会の地域ブロックの講演は大当たりだったし、先週の子供のスピーチ大会は夢を語る子供の姿勢やらディスカッションの素晴らしさやら、初心に帰れる素晴らしいものだった。

んで、まぁ、昨日もちょっと期待して講演を聞きに行ったわけなんだけど、なんだかなぁという気分。内容は悪くないよ。話し方も悪くないよ。むしろ参考になったしね。

内容自体は、家庭教育が大事って話しでそりゃそうだってことでしかない。いわゆるダメ親バカ親の事例を列挙し、その家庭の末路をこき下ろして、「心当たりがあれば気づいて自分で直して下さいね」という講演。
まぁ、話し方は面白いので、随所で不覚にも笑ってしまって聞き入ってしまったりもしたわけなんだけど、冷静に考えると、こんな意識の高いPTA役員をやるような連中に聞かせても、そんなバカ親いないだろうから無意味のような気が。ま、うちの学区にそんなバカ親おらんし。
加えて、講師本人も言っているように、この話し自体をバカ親という輩は拒絶して、アンケートに罵詈雑言を書くそうだ。

でもさ、それって、バカ親に直接語りかけても無意味だし、分かる人間ははじめからバカ親じゃないのだから、結局事態は何も変わらないことではないかとか思う。
確かに講師がいうように、そんなバカ親が子供を育てて、子供がロクでもなく育っちゃうっていう悲劇そのものは否定しないけど、このバカ親どもを詰って罵って笑いものにしたところでバカ親はバカ親のままでしかないということのような気がする。

むしろ、こんないい大人が集まる会合であれば、そのバカ親の存在を許容している社会の構造の問題とか、そのバカ親を育てたそのまた親の責任とか、そういう事を冷静に論ずべきような気がする。なんだか、バカ親を見下す集団の精神構造のほうが少し空恐ろしい気もするんだよね。

子供のために何をするかというのは確かに個々の家庭の責任という要素はあるけれど、その家庭をそこに追い込んでいる社会の責任を社会の構成員としては自覚して、うちの家庭は平気だから他人の家庭はしらんではいかんと思う。他人のバカ親を詰る暇があれば、その子をいかに助けるかを真剣に社会が考えるべき。

その子は自分の子どもと共に次世代の社会を構成するんだからさ。