事故調は誰のためのもの?

なんとなく、TVを見ていて、こんなキーワードが良く飛び出していたので。で、まぁ、このキーワードの後に続くのは、内容的には遺族が憤慨しているって話しなわけだ。遺族が憤慨しているのは、その通りで、被害者と遺族は大いに憤慨する権利があるので憤慨すべき。
でも、事故調は誰のためのものといわれると、非常にきつい言い方をすると、遺族と被害者以外のためのもの、だといわざるを得ないのではないかと思う。事故調の報告の一部として、具体的な犯人があがってきたり、責任の所在がはっきりするわけで、それによって遺族への補償問題だったり裁判の進行への影響もあるのは確か。だけれども、それが事故調の主眼であってはいけない。

大事なのは、再発させないために、その状況はなぜ起こって、その運行システムのありようとしてどこをどのように変更すれば、その事故は二度と起こらないのかを、はっきりさせることにあるはず。その上で、企業なり政治なり行政が適切なアクションを起こして、再発しない社会システムにしていくことが、その最大の目的である。その利益をこうむるのは、まだ事故にあっていない我々なのである。なので、事故調は我々一般人のためのものであって、遺族や被害者のためのものですらないのである。

いまさら、責任者を特定してメディアでつるし上げたところで、事故の再発防止への具体的な策が組み立てられなければ、無意味なわけで。そういう意味では、メディアは「事故調は誰のためのもの」などという無益な問いを発して、時間を費やすよりは、事故調の結果から、社会システムのこの部分を直すべきだというキャンペーンこそ力を入れるべきではないのか。

「せんせー、○○くんがわるいとおもいまーす」なんて、出来の悪い小学校の学級会のような、低次元の報道はそろそろうんざりしてきたのですが。
うんざりしない視聴者がいるから、結果として、こういう報道がまかり通ってるのか。