伝えるということ

翻訳家の友人のブログで、自分のブログでの話題を取り上げて頂いたわけなんだけど、それを読みつつ、さらに考えてしまう。
僕自身、小さいときから何かを伝えるということを行ってきたと思う。手法は様々だったわけだ。で、大学を卒業するときに、伝えたい誰かと伝えて欲しい誰かを繋ぐ仕事がしたいと思って、広告代理店を受験しつつ、気が付いたらマスコミなんざを受験していたわけだ。で、そこで気が付いたのが、マスコミは自分が伝えたいことを伝える職場であって、伝えたい誰かのための都合でモノを伝える職場ではない、ということ。
で、紆余曲折があって、今の自分というわけだ。まぁ、電子会議室を通じて相互理解をお手伝いしてみたり、人と人をご紹介して直接伝え合ってもらう場を作ってみたり、セミナーを開催してみたり、物を書いて発表してみたり、伝えたい何かを持つ人のためのWebツールを作ってみたりと、色々やっている。

ある種の異文化間の翻訳者という意味では、僕も翻訳者なんだろうなぁとも思う。
ただ、自分はそこでどれだけ適切な翻訳を行えているだろうかとなると常に悩む。Tクーンが言うように、「共役不可能性」があるならば、文化の違う二つの体系間で完全な翻訳なんてできっこない、というあきらめや言い訳ができる。じゃぁ、翻訳という行為は意味なしで、「自分は何もしなくていい、世の中放っておけ」と言う結論も個人的には認めがたい。
加えて「知者不言。言者不知。(知る者は言わず、言う者は知らず)」という老子の言葉もそのとおりな側面があって、そのことを伝えようと言葉にした時点で、実は伝えるべき内容を知る物ではなく、知らない人間になってしまう。言葉を使えば使うほど、この「自分は知らないのに言葉を費やしている」という苦しみから逃れられなくなることも少なくない。ましてや、旨く言えたとしても「信言不美。美言不信。(信用できる言葉は耳障りが悪く、耳障りのいい言葉は信用できない)」のように、聞き手にとって、とっても気分を害する表現だったりすることも少なくない。
好き勝手しゃべっているようだけど、実は一言しゃべるたびに胃が痛い思いをしていたりもする。

友人が言うように「言葉は不完全な道具」であるというのは確かなんだ、と実感している。テレビの世界にいたけど、映像だって、マルチメディアだってその辺は同じ。不完全な道具だ。と同時に、人間は、この不完全な道具でしか、普遍的には物事を伝えられない。この不完全な道具で記述してあるものを、不完全な道具で書き換えるなんていうのは、空恐ろしい伝言ゲームなわけで。
この伝言ゲームに参加する人間で、この辺を意識しないお気楽な輩を見ると、少しイラッとしてしまう。上手く伝わらなかったとき、自己の責任を振り返ることなく、周囲や相手や情報提供者のせいにしてどっかに逃げ込む。伝言ゲームが伝わらないのは、伝言を引き受けて伝えた奴の責任でしかない。こういう伝言ゲーマーがいるおかげで、どれだけの価値のある思想や成果を持つ人が、黙り込んで引きこもっているのかということも、少し思いをはせてしまう。


それでも、僕自身はこれからも、少しでも正確な伝言ゲーマーでありたいと思うし、この不完全さを意識しない、無責任な伝言ゲーマーにはゲームから立ち去ってもらいたいと思い続けている。