地域社会では進歩しないことも時には大事
実は、あちこちで書いてはいるんだけど、今年の4月から、小学校のPTA会長なんぞという似合わぬものをやっていたりします。まぁ、うちの子の小学校は、地域もしっかりしているし、先生方もしっかりしているし、保護者の皆さんもしっかりしているので、会長職なんぞ本物のお飾りです。ようやく今日、お飾り生活の一学期が終わりです。本日夜、懇親会で一杯やってひと段落です。
そんな活動を眺めながら、時に思うのですが、ほとんど、やることも、やる手法も十年一日のような時代錯誤感があって、「これでいいのかいな」ときっと先端的な人なら思うんだろうなと。
たとえば、いまだに広報誌の原稿は手書きで集めて、切り貼りをして原稿を作って印刷屋に納品して、活字に起こしてもらって出来上がるという代物。僕の原稿も、デジタルで書いてから、手書きに起こして広報誌の係りの委員さんにお渡しするわけだ。
広報誌だけが時代錯誤というわけじゃなくて、ほぼ全部の活動がそう。企業等でバリバリやってきた人なら「そんなまどろっこしいことは有り得ん!」と、息巻いて怒るんじゃないんだろうかとか思う。それに、今日日の親御さんは皆忙しいわけで、そんなまどろっこしいことはなお許せん、という気分になるのかも、とかは思う。
でも、1学期を通してやりきってみて「多分これでいいんだろうな」というより「これが正しいんだろうな」と、肯定的に認識するようになっています。
確かに、企業の業務であれば、少しでも効率よく、誤りを減らすこと、付加価値を増加させることに主眼がありますから、先の広報誌をとってもデジタル化しすばやく製作して、その余力で違うことをして、付加価値を稼ぐわけです。それはそれで正しいことです。
ただ、PTAに限らず、いわゆる共助の組織の定型業務に求められる機能は違うんだろうなと。特に、メンバーが毎年のように入れ替わる共助組織であれば、メンバーがある程度固定される企業とはもっと違うことが重要になってくるんだろうなと。
それはメンバーの相互理解を得るための活動であるということが重要なんだろうなと。そういう意味では、効率の悪い手作業で構築される活動ってのは実に大事なんだろうなと。雑談でもしながら、効率の悪い手作業を一緒にやることでお互いの人柄やら何やらを理解しあうことが出来る。そうすることで、いざ地域や学校で非常事態が来たときに強い地域組織を作ることができる。
確かに、学校の部活の後輩のしごきみたいに、明らかにネガティブな理由で繰り返される、くだらない慣行は無いほうがいい。でも、すべての、十年一日の、一見すると「くだらない慣行」も、相互理解を生みやすい手法であるなら、それは繰り返されるべきなんだろうなと。地域の共助に必要なのは進化ではなく、共に行き続ける相互理解のネットワークを作ることなんだろうなと。
ま、ぼくとしては、近所の人と仲良く飲めればそれがいい社会だな、ぐらいの認識しかないけど。