家の本質

この間、マンション非難を書いたからというわけじゃないんだけど、ちょっと家について考える。
生まれてこの方、結婚するまで、貸家住まいばかりを繰り返してきている。結婚してからも僕が建てた家ではなく、家内の実家に数部屋頂戴して生活している。

そういう意味では、「自分の家」というものに住んだことは無い。という風に考えることも出来る。
が、家って何だろう?
貸家でも、へたすりゃダンボールハウスでも「帰宅先=帰る家」なわけだ。そうすると借りた家でも、家は家。ただ、自分に振り返ってみると、一人暮らしの期間中に住んだ家々はどれも、自宅、では無かったような気がする。なんか、貸間、というのがぴったりな感じ。なんか、空間を借りているだけで、ホテル住まいと大差は無いような気分。
では、今はどうかというと、「自分の家」に住んでいる気はする。この差はやっぱり「自分以外の家族」がいる空間だからだと思う。裏を返すと、自分以外の家族のいない日は、この空間は自宅という感じは全くしない。
とすると、自分にとっての「家の本質」は、ハードウエアの建物とかインテリアとかは、どうでもいいことがよく分かる。あくまでも、そこにいる自分の家族が家の本質的な要素であって、家族がいれば、どこでもそこは「自分の家」だし、家族がいなければ自分で買った箱であっても「家ですらない」というわけだ。
家の定まらない奴を根無し草という。転勤族の子供の自分もずっとその部類だと思ってきた。根無し草かどうかは「住所が固定しているかどうか」よりも「家族が固まって住んでいる空間があるかどうか」に過ぎない。今まであって、これからもそれがある以上は、僕は実は根無し草ではなかったということだろう。
家族を大事にすることが、本当に家を大事にするということなんだろうな。