「マッチ売りの少女」と「かさじぞう」

この年の瀬を舞台にした、昔話の東西の両巨頭といえるのが「マッチ売りの少女」と「かさじぞう」。
雪の都会を、ろくに売れない日用品を売って、年を越そうというお話であるところも同じ。ある意味で、両者ともに最後は救われるお話なんだけど、ヨーロッパと日本の大きな違いを感じる。日本は、昔から支配者による小作人等の締め付けが厳しいと思われがちだが、ヨーロッパのほうのシビアさはその比ではなかったようだ。階級構造の強固さは、ヨーロッパのほうが遥かにきつかったそうだ。
その辺は宗教観や倫理観にも現れているだけではなく、こういうお話にも現れているといえるだろう。
マッチ売りの少女は、死後、神によって魂が救われる。だが、かさじぞうは、生きている間に長者にまでなる。現世利益をしっかり得ている。日本という国はそれだけ階級構造が甘く、現世利益を得ることが不可能ではなかったということの表れでもある。
また、帰宅しても売れないと受け入れてくれないギルドの親分しかいないマッチ売りの少女。他方、かさじぞうは、売れなくても「しょうがない」といってくれて、ともに貧しさを共有してくれるやさしい相方。この辺にも、平均的貧しさのありようの過酷さが現れているといえる。

子供の頃から読み聞かされた話が、子供の思考や精神構造を作る。どっちを読み聞かせるかで、逆境で来世利益方の子供になるか、現世利益方の子供になるかがある程度は決まるかもしれない。