昔思ったこと:子どもにとっての行革の価値

なんか今更ですけど、こども庁を作るとか作らないとか話題になっているようで。野党の方も、こども家庭省なんぞを提言しているようですけど。どっちとも僕的にはなんかいまさらだよなぁとか思うわけです。
10年前(1998年)にこんな文章を書いていたりします。
http://www.fsinet.or.jp/~mfuna/syakai/hihyo5.htm

恥さらし的文章なので、採録はしたくないのですけど、もう10年も前に、その再編のチャンスがあったのにおなざりにしてきたって自覚は政治家どもにはあるのかねぇと。その辺、与党も野党も意味のない政争の具にだけして、大人やメディアは感情的な金勘定論に終始して、結局こども省なんて話は一つも出なかったよねぇ。

まぁ、やらないよりやったほうがマシはマシなので、速やかにかつ確実、適切な範疇に対して実行してくださいとしかいえません。
それにしてもやらないよりやったほうがマシという状況の繰り返しだよなぁ。選挙民としてはこういうことを良く自覚して一票投じていかないとな。

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子どもにとっての行革の価値


なんだかんだ言って、どうやら、省庁再編を含めて、行革が実行されていきそうである。で、これも通例だが、こうした事が始まると、多くの人(学者、評論家、TVキャスター等)が、それぞれの立場から、あそこが欠けている、ここが違う、と、ケチ難癖をつける。
個人的には、やらないよりやった方がいいとは思うので、 大蔵がどうの、郵政がどうのという気はない。
ただ、自民党の選挙PRのとき、彼らは何をアピールしていたであろうか?悲しいかな、今は、誰も指摘していない。「行革じゃないの」というかもしれないが、行革を通して何をしたいかどうしたいのかを彼らは明確にPRしていたはずだ。
それは、「子供たちが夢を語れる社会を作る」ことではなかったのか?少なくとも私は、あのPRビデオをそういう風に眺めていた。そういう観点から、今回の行革にケチはいいたい。

「あれじゃ子どもは夢を語れない!」
行革の問題ではないが、中高一貫等、見せかけの改革で受験に伴う社会的歪みを放置するのなら、それに対する歪みを十分ケア出来る省庁再編を期待したかったが、まったくそうはなっていない。
子ども(特に教育)が関係する省庁はいくつあるのかは詳しくは知らないが、大きな物が二つある一つは 「文部省」であり、もう一つは 「厚生省」である。意外と、後者は「えっ」と意外に思う方もいるであろう。児童相談所など、児童福祉関連の施設や人はほとんど厚生省の管轄なのだそうだ。(もしくは地方自治体)あれ、科学技術庁は?と思う方もいるだろうが、あそこは「子ども」の教育にはあまり関係ないと思う。基本的には「大学」以上の「大人の教育」のための機関だ。

児童相談所にいる人「児童福祉司」の方にお話を伺ったことがある。この省庁再編で真っ先に思い出したお話があった。
「(学校の)先生方は、子どもをこちらに預けたがらない。確かに、親の手前や、世間体もあるのでしょうが、子どものことを第一に考えれば、今ある環境からはなすことも必要なんです」
で、この、世間体というのが何かというと、いわゆる省庁の壁なんだそうだ。
要するに学校の中の子どもは「文部省」のモノで、学校にタッチしない部分だけが「厚生省」のモノなんだそうだ。どうも、こういう感覚が学校側には、そこはかとなく浸透していて、「児童福祉司」がアドバイスやくちばしを挟むことが出来ない雰囲気なのだそうだ。(ちなみに、児童福祉司の皆さんは、世界一の激務といっても過言ではないくらい働いてますので、くちばしを挟む暇も本当はないようですが、担当する子どものために一生懸命にやっているようです。)
学校という世界で傷つき、社会でも傷ついた「子ども」、特に、今、受験という社会構造で多くの子どもが疲れやんでいると思う。にもかかわらず、大人たちがこんな感覚では、子どもにとっては不幸な時代としか言えない。

今回の省庁再編でこの辺は何も改善されていない。要するに、問題の壁は残ったままなのだ。
受験が残り、省庁の壁が残り、果たして、子どもが夢を語れる社会なのだろうか?
これで語れる夢は、一昔前の奴隷が語る夢と変わらないのではないか?それは、本当のただの夢物語だ。
自民党は、そんな不幸な夢を語らせることが目的で、今回の行革を進めているとしか思えない。

じゃあ他の政党で出来るのかというと、それはそれで怪しいのだが....。