オスプレイ配備について思うこと
なんか、話題になってますね。オスプレイ。再稼動ネタも飽きたのか、最近の朝のニュースはこれが主流のようです。
個人的には、原発のときもそうですが、わりと、正しく判断して決めてくれればどっちでもいいと思っているので、その辺どっち派にも組する気はないのですが、なんというか、日本人の駄目な部分が、この論争で浮き上がっているなと思うわけです。
ひとつは、「絶対安全じゃないといや」だ、という絶対安全強制思想とも言うべきものです。あと、これの派生ですが、今の危険との比較ができない「今が一番マシに違いない」という、変えるのはいやだ思想。
この一件って、今の米軍の輸送ヘリがそろそろ耐久年数過ぎるんで、新しい輸送機に切り替えましょうって話。アメリカさんは、きっと、耐久年数過ぎたヘリをいつまでもずるずる運用して墜落するリスクより、オスプレイの墜落するリスクのほうが小さいって判断なんでしょ。僕はこの判断自体はいいと思う。基本、対応年数ってのは、それ自体がその機材の限界を示すものなんだし。
こういうことを日本はスッパとできないから、太平洋戦争のときにいつまでたっても村田歩兵銃にこだわって、震災のときに有効年数を明らかに過ぎた原発を捨てるという判断ができなくて、事態を悪化させたわけでしょ。変な話、僕から見て、本当に同根のメンタリティにしか見えない。
あと、オスプレイの事故に関する評価の仕方も気になる。数件の墜落事例ばかり騒ぎ立てるけど、むしろ大事なのは確率論としてどうなのって話だ。結局、絶対墜落しない飛行物というのは基本ありえない。「絶対墜落しない、これ以外認めない、でも、今導入しているものは、よくわかんないけど、なんでもOKしちゃう。」という、とてつもなく変なロジックを公然と言い立ててる。
このロジックの行き着く先は、進歩しない社会ってこと。進歩させたい人々が、このロジックを打ち破って、次のものを導入するには、ある意味だまくらかして、絶対安全神話を押し付けるしかない。入れちまえばこっちものもんだということ。最後に破綻したときに大騒ぎになる。
より安全な社会というのは、常に古いものの更新という形でしか、原則できないはずだ。古いものを交換するときに、少なくとも、同じものではなく、よりマシなものへの交換しかありえない。それは受け入れるしかないと思う。
たしかに、この問題の本来の話は、米軍基地の返還問題が先で、オスプレイがどうということではない。だから、米軍が住み心地悪くなるまでオスプレイを含めて反対しているというのは、確かに100年後の基地がないという部分での安全は買えるかも知れない(しかも、かなり低い確率で)。でも、明日のヘリ墜落事故のリスクは高まって、加えて隣国からの侵略やら攻撃のリスクが高まるって話。どっちを取るかは、ちゃんとリスクを自分なりに数値化なり何なりして、冷静に考えることでしかできない。
絶対の安全なんてどんな時代だってありえっこない。その危険のグラデーションと、どんだけちゃんと向き合うかでしかない。
結局、それと向き合う勇気がないから、こんな騒ぎ方しかできないんじゃないかと思う。「絶対」なんて言葉は今日から捨てて、その分かりにくさときちんと向き合うしかないということ。これを国民がみんな実践したら、少しは、これに限らずいろんな事態が、マシで建設的に進むように思う。
って、書き終わってから、永田晴紀氏のBLOGでおんなじような話を見たなぁと。なのでちょっと紹介。
わからなさ(このエントリーの後半です)