日本酒

今日、すごく久しぶりに日本酒のテイスティスティングっぽい事をしてみた。

試したお酒自体は美味しかった。大吟醸でありながら常温でもしっかりとした味わいがあり、様々なアテとあわせても、大変美味しかった。また、軽やかな香りが身上の大吟醸でありながら、にらの卵閉じや肉野菜炒めなどの油モノや匂いの強いものも上手に流し落とす感じで、よほどニンニクの強いものでもない限り、本当に幅広い食に合わせられる感じである。むしろ日本古来の魚のみりん干や練り物などでは若干クビをかしげる感じであったぐらい。いわばワインのように楽しめる日本酒とでも言おうか。おそらく現代の食卓に合う大吟醸なのだろう。
今までの「晩酌のためのアテ」という関係ではなく「食事のための酒」という関係において優れた味わいなのだと思う。他方で、各種の金賞酒とは少し異なる味わいなのかもしれない。

ただ、この差異もあくまで日本酒というジャンルのレンジの中での話だと思う。日本酒というお酒の味のレンジとはいい意味でも悪い意味でも狭い。日本酒での違いやら何やらを考えても、日本酒は日本酒である。この狭いレンジの中で最高峰を競うので味の差は精妙である。
他方、ワインはというと、赤もあるし白もあしロゼもある。もっと言えば各種のフルーツワインもある。いわば味のレンジが異様に広い。この広いレンジのため、素人でも赤白の違いが区別がつくように区別がつく。日本酒の差より大きな差があり、それが食事ごとにお酒を変えるということにも繋がる。
そう考えると、日本酒はちょっと素人さん向きじゃないお酒なのかもしれない。とも思える。
その差が分かることの自慢では決してなく、いろいろな飲み方をしているうちに、ようやくこういう境地に至ったわけだ。

フルーツ日本酒なんてほとんど存在しないし、理化学研究所が開発した合成酒なんて現在では飲用としては完全抹殺である。今じゃカップ酒だって純米酒があるくらい。そういう意味では、寛容の文化の国といいながら、この一件だけを見ると、ワインやビールの国より圧倒的に非寛容であるとも言える。こうして純血な作り方を守るということに価値があるのも確かだ。
とはいえ、こういう方向性のチャレンジもしていかないと、日本酒市場がシュリンクしていくような気もする。今の酒飲みもこういう酒造への挑戦に寛容にならねばならぬ時期なのかもしれない。

ちなみに、この一宮の銘酒、私の味覚では一番会うアテは結局、その近隣で作られる赤カブの漬物であった。なんのかんのと、昔から言われる「その土地の食べ物にその土地の酒が最もあい、その土地の酒にはその土地の食べ物があう」というのだけは真理のようである。
当然、酒は嗜好品なので、誰が何を飲もうがかまないものである。と当時に誰が何を飲もうが気にしない心も大切である。

テイスティングをしながらこんなことを思った次第で。