量子力学における測定の問題

Bas van Fraassen

ラティが、私に、この会議の測定の議論のサマリーを書かないかと言った時、
もちろん、それらすべてを正当化するやり方はないということには気が付いていた。
測定のパネルディスカッションにおいて、アルバートは
維持できるような量子力学の解釈はたった二種類しかないといった。
その一方に従えば、量子力学は誤りであり、
もう一方に従えば、量子力学はおそらくは真だけれども、不完全である。
この結論に対して、私が望みうることは、せいぜい、
悪い状態に入り込まないようにすることだろう。


まず、与えられたカテゴリーを大きく二つに分け、さらに、
それを二つのサブカテゴリーに分けよう。
はじめ区分は、ユニタリー展開演算子をもつから始めるものと、
それを前提としては置かないという立場に分けることだ。
第一のカテゴリーは、比較的標準的なやり方、
例えば、超選択則を認めたり、
positve operator valued measureであるオブザーバブルを認めたりして、
フォーマリズムを広げていきたいとする考え方である。
第二のカテゴリーはよりラディカルである。


第二のカテゴリーには、私は、第一のものと比べて、あまり馴染みがない。
このカテゴリーで、他の重大な違いが見いだされる。
ヒルベルト空間から始めるという態度に中立的で、
ヒルベルト空間のフォーマリズムが正当化されるなら、
それで完了したと見なしても良いと考える人たちである。
ここでは特に、ペレ教授や、バイッツェッカー教授などを考えている。
彼らは現象論的に述べられるべき一般的な原理を展開しようと試みた。
彼らは、経験や観察の構造のようなものでは、
われわれに認識論的に非常に近いことに関心がある。
そのプログラムは表記公理と呼ばれるものを与える。
In the sixties(舟注:意味不明)
ヤオホやピロン等の量子論理プログラムのような、
この種の大きなスケールのプログラムが存在した。
それは、表記公理がヒルベルト空間や
ユニタリーグループを持ち出すことを妨げない。
実際にペレ教授は少なくとも部分的にはそうであろうという理由を
我々に与えた。


しかし、全く違う立場の人もいる。とくに、
プリマス教授やザオラル教授によって展開された
GRWモデルや代数的量子力学である。
どちらも魅力的な立場である。


ギラルディー教授は、彼のアプローチがどのようにして
相対論と上手くやって行けるかを示し、
GRWモデルが波動関数の収縮の相対論的モデルを
生み出す事が出来るのを示した。
我々が既に見たように、GWRモデルは標準的量子力学のライバルであるが、
その経験上の違いというのは、同じ実験的支持を主張できるほど、
小さな違いでしかない。
この時点では少し保留をしたい
GWRモデルはより標準的な量子力学の修正として産み出された。
私がGRWの世界の中では、普通の問いに普通のやり方で
答えることが出来るという自信はないといわざろうえない。
これは決してっ批評というほどものではない。
ただの意志表示にすぎない。
標準的な量子力学の基礎の細部において解かれたものが沢山ある。
GRWに対する同様な厳密な基礎にたいして、
それを訴えかけよう。
次のようにいうやり方はアンフェアというほどではなかろう。
GRWモデルは、それのハイゼンベルグやそれのシュレディンガーや
それのパウリを持つであろう。
しかし私の知る限りでは、それのフォンノイマンをもってはいない。


代数的量子力学の場合、今のところ、それは量子力学の真のライバルであろう。
しかし、それから話を始めるのは適切ではないと思う。
その数学は、特殊な場合として標準的量子力学を持つ一般化である。
プリマス教授が主張しているように、これは誤った特殊な事例として理解される。
正しい特殊の事例は、ローカルなコンパクト位相空間ではなく、
古典系と非古典系の共存を認めるものである。
展開の方程式は非線形であり、普通の量子力学とは違った状況にある。
そして、この理論は魅惑的である。


しかし、ザオラル教授の論文では、これからなされるべき仕事が
どれくらいたくさんあるかということが述べられていたように思う。
最も基本的な問いに対しては、キァリケイチャーと呼んでいる
単純化された例でしか答えられていない。
まだ氷山の一角を見せられたに過ぎないように思える。


しかし、最も重要な問いをしなければならない。
プリマス教授のレクチャーを聴いたとき、次のように自問自答し続けた。
この理論において測定問題に相当するものは何であろうか?
このレクチャーの後半部分で、その相当するものが、
始めて現れてきたように思う。
それは、エンド物理とエキソ物理についてのことである。
エンド物理は閉じて孤立している系の物理的記述である。
いわば神の目の視点である。
哲学において、「どこからでもない視点」といわれるものだ。
そこで、プリマス教授は、系の内在的オブザーバブルと呼ぶものを
記述するC*-代数フォーマリズムを与えている。
他方、エキソ物理的記述は、世界の残りの部分である観察者からの記述である。
それゆえそれは、開いている系である。
普通の量子力学でも、そういった区別はある。
もちろん、ここでは、ダビーの「オープン系の量子論」
という本を念頭に置いている。
ペレ教授は昨日ダビーに答えるためにこの本に言及していた。


これは、代数的量子力学においていかになされるであろうか?
観察者はある文脈を決定する。
それは、内在的状態の空間の位相(トポロジー)によって
特徴づけられる。
これは、C*-代数モデルの状態の空間の課せられた、
文脈的に選ばれる位相である。


ここまでで、普通の量子力学と代数的量子力学に並行的なものが存在する。
どちらの場合でも、二種類の記述が存在する。
一方の記述は視点的で、文脈的要素で決定される。
他方の記述は非視点的で、非文脈的である。
いま、どちらの場合でも同じ問題が出てくるだろう。
観察者が意識を持つ人間ではなくオートマトンだとしよう。
同じ区別を適応する。
しかし、ここでの文脈的な選択というのは、意志による自由選択ではなく、
このオートマトンを特徴づける物理的要素によって
決定されなければならない。
そこで、オートマトンとそれが測定する系の両方を含む
閉じた系を取りましょう。
そして、そのエンド物理的な記述を議論しましょう。
この記述は、どのようにして、オートマトンの物理的性質が
文脈的選択を固定しているのかを含んでいなければならない。
そうすると、正しいエキソ物理の記述が、
どのようにエンド物理の記述と関係しているのかを
理解することができる。


プリマス教授の用語で問題を提出すると、
次のことを理解できる。
a)普通の量子力学に適用するように、それは、測定問題の外観を持っている。
b)プリマス教授もまたこの問題に直面している。
普通の量子力学のアプローチをする人々と同じように、
彼もまた、必要に応じて変更を加えて、その問題を提出する必要がある。


プリマス教授のレクチャーをはじめまで振り返ってみると、
彼が、完全にこの問題を認識していて、実ははじめに測定問題に言及していて、
その問題を取り除いたり、回避しようとしていたりしていたことに気がついた。
彼がいっていたことは、
物理学の普遍的正当性を仮説的に主張すると、
自己参照を含む自然の記述を考えなければならないようにみえる。
このことは、真理についてのタルスキーの公理によって
いかなる場合でも不可能である。
そうすると、そのような記述を与えようとするなら、
何か不可能なことを試みることになる。
明らかにそれをすることはできない。


これが私の提出した問題を取り除くことはできないと思われる。
普通の量子力学で同じ問題に直面するとき、
タルスキーも公理と対立しているとは思わない。
だれも、自己参照を考慮した真なる理論を求めてはいない。
理論の計画は、その公理によって限界づけられている。
さほど大きなことを問う気はない。
文脈的選択が純粋な物理的要素をもちいて
内部で決定されている閉じた系のエンド物理の導出を
プリマス教授はしなければならないように思われる。


ただ、わたしもC*やW*-代数の勉強をもっとしてみなければならないであろう。
しかしながら、次のことは強調しなければならない。
それらの普通の量子力学のライバルが魅力的でエキサイティングな提案であるが、
しかし、私はそれらについて語ることはできない。


恐らく、第一のカテゴリーについては少しか語ることができるであろう。
そのカテゴリーはさほどラディカルではなく、
普通のヒルベルト空間フォーマリズムを支持し、
それらを保とうとする立場である。
わざわざ、時間を費やしてまで、このポリシーを支持しているのが
多数派であると主張する気はない。
しかし、私はこの立場を取っている。


それらの標準的なアプローチを考察するのに、
それらを再び二種類に分割しましょう。
それらの区分は立場の違いではなく、むしろ仕事の違いである。
著者達の大半は、その両方の仕事にある程度づつかかわっている。


私が考えている二つの仕事とは次のものだ。
a)ある程度まで可能であろう、純粋に量子力学的な測定の記述を与えること。
b)測定の考えが出てくる解釈の問題を提出すること。


まず初めに、標準的な量子力学の測定の理論から始めよう。
私が思うに、この仕事はすべての関係者にとって一番価値のある仕事である。
なぜなら、それは中立的なやり方で、
我々の議論の共通の基盤を描き出すからだ。
この領域において、大きな進歩があった。
その様な進歩の数々が、沢山の論文によってここで報告された。
とくに、ブッシュ、カッシーニ、ミッテルシュテッド、シュレック、イモト、
コバヤシ、グラボイスキー、マツモト、ラティーらによって提出された。
今年になって、主要な研究が報告された。
ひとつは、ベルトラメッティ、カッシーニ、ラティー、によるものであり、
もうひとつは、ブッシュ、ラティー、ミッテルシュテッド、によるものである。
詳しい話しを聞いたけれども、
ここでは、基本的結果の簡単な結論だけを与えましょう。


測定の量子力学的理論に対する問いは、
非常に注意深く述べられなければならない。
「測定」という言葉にはある含蓄がある。
日常言語からその言葉を思い出すと、
その含蓄とは、人間の活動や人間の意図を含んでいる。
しかし、核を成す問題は、純粋に物理的なものである。
測定にたいして用いられるためには、プロセスは
どのようなものでなければならないのか?
いかなる種類の物理的な相互作用が必要とされているのか?
答えるに当たっては、ある条件が与えられ、
その条件が、少なくとも測定の役割をする候補者の
物理的相互作用のクラスを定義する。


第一の条件は、ある確立分布が再生産されるという要請である。
この条件を表現するために、
測定相互作用の通常用いられる描像を使いましょう。
対象系の初期状態をW、器具の初期状態をT、
それぞれの還元された終状態をW'、T'とする。
条件は、
測定されるオブザーバブルAにたいする初期ボルン確率分布
(E→Tr(WIAE))
が、値を示すオブザーバブルBに対する終ボルン確率分布
(E→Tr(T'IBE))
によって再生産されなければならない。
ここでIAEはAの実数集合Eに関する射影である。
簡単にいうと
条件1.Tr(WIAE)=Tr(T'IBE)
この条件にたいする二つの動機付けとなる理由がある。
第一がボルンの規則の形である。
それは非常に多くのことを述べているようにみえる。
しかし、私には、一連の測定(測定の鎖)を許すなら、
それもまた必要であるようにみえる。


多くの今までの結果をたしあわせると、一つの強い結果が出てくる。
それはカッシーニ教授によって提出されたものだ。
結果1.すべての離散的オブザーバブルAに対し、
次の場合にかぎり条件1が満たされる。
そのプロセスが、次のようなユニタリー演算子によって産み出される。
U(ψij*Φ)=Ψij*Φi
ここでψijは固有値aiに対応している固有ベクトルであり、
Ψijは二番目のインデックスに関して直行している単位ベクトルである。
Φiは値を示すオブザーバブルBの固有ベクトルである。


条件1が測定プロセスに関して十分であると考える理由はない。
反対の一つは次のようなものだ。
器具の終状態が、一般には、
値を示すオブザーバブルの固有状態の混合にはならない。
そうすると、ボルン確率を
値を示すオブザーバブルの値の確率と考えることすら出来ない。
そこで、ベルトラメッティ教授の論文に基づいて、
プロセスをより測定らしく見せる第二の条件を書き記しましょう。


条件2.プロセスの終わりでの系と器具の還元された状態は、
測定されるオブザーバブルと値を示すオブザーバブルのそれぞれの
固有状態の混合状態である。


両方の条件を満足するプロセスのクラスについてのすべての問いに答える
結果が出てくる。


結果2.結果1のプロセスに対し、次の場合にのみ条件2が成立する。
そのプロセスが、測定されるオブザーバブルと、
値を示すオブザーバブルとの間に、
フォンノイマン-リューダース測定を特徴付けるタイプの
強い相関をセットアップする。

これらは基本的結果である。
そして、さらに補助的な結果のより豊富な族を持つ。
カッシーニ教授が示したように、
それらの相互作用を分類したり、
構成したりするやり方を我々は知っている。
その抽象的な存在証明は構成的なものによって置き換えられた。
加えて、確率の側面を用いた可能な種類の相互作用の重要な分類を
持っている。
しかし、それらの二つの結果を基本的なものと私は考える。


実際の感心はここにあるのだが、昨日のパネルディスカッションの参加者達は、
この種のことは理想化されすぎていると不平をこぼしていた。
実際の実験室での測定は、
この理想化されたスキームから外れているようにみえる。
しかし、この感心に答える幾つかの仕事があるようにおもえる。
ここでは、はっきりとしていない値について(unsharp)の
測定についてのしごとを考えている。
そのスローガンは次のようなものである。
我々は大雑把(crude)な測定も特徴づけなければならない。
しかし、いかなるオブザーバブルの大雑把な測定も
大雑把なオブザーバブルのはっきりとした測定でなければならない。
ここでより多くのことが必要とされるということには同意するでしょう。


ここで最後の問題に目を向けましょう。
それは、普通のフォーマリズムを使った仕事のこのカテゴリーに関する
解釈に関係するものである。
これは非常に重大な問題と結び付いている。
測定の標準的量子力学的理論を使う人々は、
ある特定の形でこの問題を提出する。
それは、客観化の要請である。
それが何なのかを述べる前に、
過去十年での初期段階で起こったことに言及しましょう。
ベルトラメッティーとカッシーニの本を用いよう。
この本は、私のバイブルというほどではないが、カレワラぐらいではある。


測定の終わりで、重ねあわせを、フォンノイマンが提案したやり方で、
混合状態に変えることが可能であろうか?
もし超選択則を認めるのなら、答えはYesである。
値を示すオブザーバブルが超選択則で区別されるなら、
重ね合わせのような単一のベクトルで書かれる終状態は、
実際は混合状態を表現している。
なぜなら、別々のコヒーレントな部分空間から取られている
要素を持つからである。
これはあるやり方では素晴らしいものだ。
なぜなら、シュレディンガー方程式を維持する一方で、
波束の収縮も持っているということを意味するからである。
しかし、沢山の問題が存在する。
一つはハミルトニアンがオブザーバブルを表現できないであろう
ということである。
これはワンによって指摘された。彼はそれについての解を議論した。
他の問題もある。
超選択則はどこから来るのか?
それらは、測定機器の巨視的性質から出てくると示唆される。
しかし、ある側面が古典的になるために、対象が十分に大きく、
また十分な数の粒子を含んでいるときでも、
これは私のカレワラとは同意できない点である。
どれくらい複雑性が増加したらそのような超選択則を導くのかを
理解できないということを単にいっているのではない。


私の実際の不同意は次のことにある。
そのような仮定を用いて測定問題を解決したとしよう。
その場合に我々は何を得ることができるのか?


物理学は世界において起こっていることについての情報を
与えると仮定されているということを思い出してもらいたい。
物理学者にある経験的情報を与えるかどうかを尋ねたなら、
彼はいつも同じことをするだろう。
測定結果についての確率を計算する。


これは、沢山の測定が存在するなら正しい。
わたしは、かれらにディノザウルスの時代に起こったことを尋ねたいし、
月の外側で起こったことも尋ねたい。
もし、測定が人間の存在と関係なく起こるプロセスなら、
このことはOKだ。
たとえば、大きな石がディノザウルスの頭に落ちてきて、その頭にこぶを作る。
これは、その時代の石の位置の測定と見なすことができるのではないか。


もう少しまじめに考えよう。
測定の基準が純粋に物理的な基準であるなら、
測定の相互作用が、自然においてしばしば
自発的に起こっているということが可能である。
そうするとその場合、測定結果の確率は、
生命のない自然に適応され、それについての沢山の情報を与える。


しかし、ミクロレベルではどうであろうか?
量子力学はそこで起こっていることの経験的情報を与えるであろうか?
同様にあるミクロプロセスが測定としての身分を持っているときに限り、
それについての情報をそれは与える。


私の書いた二つの条件を思い出しましょう。
空間のある孤立した領域で2、3個の粒子しか存在しない
ということは十分可能である。
そして、それらが二つの条件を満足する相互作用を持つことも可能である。
そのばあい、相互作用が測定であるとしたら、
そこに起こっていることについての沢山のことを
量子力学は教えてくれる。


そうすると、私のカレワラとの不同意、
すなわちマクロレベルに集中している測定問題に対する解との不同意が
理解できるでしょう。


1981年から、測定が客観化で終わるという考えに対する
沢山の誤りが存在した。


客観化の誤り。
これに対してミッテルシュテッドとブッシュによって記述された公理を
再獲得しましょう。

a)ミッテルシュテッドによって与えられた客観化の定義:
状態が無知解釈を許すようなBの固有状態の混合である場合に限り、
Bは客観的な値を持つ。
b)客観化の公準:
測定の終わりで、値を示すオブザーバブルは客観的な値を持つ。
c)結果:
Bの固有状態が超選択則によって区別される場合、
Bは器具に関する全てのオブザーバブルと可換である。
すなわち、器具は離散的な古典系である。
それゆえ条件1はもはや満たされない。


注意点。
この状況についてのコメントで終わるという勝手をお許し頂きたい。
この会議での私自身の論文も参照していただきたい。
客観的な値の定義は、フォンノイマンの意味論を含んでいる。
すなわち。値付与と状態付与を同一視することだ。


それまで提案されてきた客観化は、
値付与に対するフォンノイマンの意味論を前提している。
そして実際に、そのような前提を用いて、
客観化のアイディアのある意味は存在できる。


結論。
我々は非常にエキサイティングな時代に生きている。
量子力学において、超選択則を使ったり使わなかったりして、
何がモデル化され、何がモデル化されないのか?
さらには、いかなる種類の選択肢が、
NOGO定理を逃れることができるのか?
我々はこういったことを、沢山学び、沢山のことを知ってきた。
しかし、まだ、非常に基本的な問題に直面し続けている。
ある一匹の神秘なドラゴンを退治しても、
すぐに新しい姿で復活するようなものである。
しかし、その各々の新しい生命体は、
より正確な姿で現れてきて、厳密で形式的手法によって
傷つけることがしやすくなる。
そして私が思うに、
それは、最終的に私がデビットの表明する楽観主義に共鳴する理由である。
私が思うに、このドラゴンは、最後に彼が殺されていなくても、
すでにただ生きながらえているに過ぎないのだ。