確率

確率とは、数学的には次のような公理を満たすものである。

空間K、また、Kの部分空間A、B、........。
ある関数Pを考える
0≦P(A)≦1、
P(K)=1
AとBが互いに独立の時
P(A∪B)=P(A)+P(B)

上記の関係を満たす時
P(A)を事象Aの確率値
とよぶ。


数学的にはいたってシンプルなものだ。
ではこの確率の意味することは何であろうか?

我々が確率を用いると基礎の意味について いくつかのスタンスがある。

一番多く用いられているのは、我々の
無知の尺度
としての解釈である。
たとえば、サイコロの目の確率を考えてみよう。
確かにそれぞれの目の出る確率は1/6だが じつは、これは我々が単に細かい諸条件の全てを 知ることができないがゆえであると考えられるだろう。
たとえば、サイコロの振り出される時の向き、角度、速度 テーブルの弾性、etc....。
そういったものを全て把握できたなら、どの目が出るかは分かると考えるだろう。
そういった諸条件や隠れたメカニズムを我々が知らないが ゆえに確率を用いている。
このように考える解釈を、確率の主観主義解釈という。
この立場を取るなら、本質的には確率は存在しない。 あくまで、確率の背後にその確率をつかさどる 決定主義的なメカニズムが存在するからだ。

それとは反対の立場がある。
確率を対象の本質的な性質と捉える立場だ。
この立場では、ある確率はその背後のメカニズムの導入を 認めないとする。
こちらの解釈は、確率の客観主義解釈と呼ぶ。
この立場によれば、確率は世界から 抜き取れない性質であるがゆえに、 世界を非決定主義的に捉えることになる。

現実の科学における確率はどちらの立場といえるかといえば、1900年初頭の統計力学の登場においては、主観主義解釈が採用することが正当のように見える。
様々な事象の性質を、粒子と力学に還元することによって 説明を与えることに成功したといえるからだ。 すなわち、確率の背後にある現象を巧みに与えることが 出来たからだ。
しかし、量子力学、特にフォンノイマンのNO-GO定理の 登場により様子は一変している。量子力学は確率しか 予測しない理論であるが、この確率以上の背後にある力学 を熱力学に対する統計力学のように構成することは、 非常に困難であるからだ。
そして、NO-GO定理は、そういった隠れたメカニズムの 構成を不可能であることを証明したといわれる。 そうすると、確率を客観主義的に捉えざるをえなくなる。

しかし、客観主義的に捉えるとしても、まだ問題は残る。 それは、確率値と現実に起こる(もしくは起こった)事象との 関連である。
これをクリアしようと多数の解釈が提出されている。 様相解釈や傾向性解釈、頻度解釈など、多種多様である。 しかし、いまだに科学に用いられてる、確率の解釈を 一意にし上手に説明できるものは提出されてはいない。