ハンディキャップユーザーとゲーム

今、デジタルメディアの世界はマルチメディア化に乗っかって、 多種多様の表現手法を生み出していっている。 それは、TVゲームも同様である。
しかしそれらの表現手法も、メディアの本来の目的である、 「伝えること」に使われなければ意味はない。

華麗なデジタルアニメーション、迫力のサウンド。 これらが伝えることの大きさは絶大だ。 しかしこれらを享受できないユーザーがいるとすれば、 それはまったく無意味ではないのか?

先日はっとさせられる、ホームページ(1997時点。現在はサイト閉鎖のため見られない)に出会った。 そこには字幕付のゲームが紹介されているのだ。

こういう観点に立てば、確かにデジタルメディアの ヒューマンインターフェースは不親切である。 目の不自由な方には、あのマッキントシュといえど、 物理的キー接触で判定する、DOSの方が親切だろう。 また、そのページ著者がおっしゃられているように、 音だけのゲームなど、耳の不自由な方には、 何の価値もないだろう。
TVゲームがメディアなら、こういうことにも気を配るべきだろう。 私も、こういうことに気を配っていなかった。 ハンディキャップのある方の社会的インフラ不足についての 関心はあったものの、こんな身近なところに不親切が 横たわっているのに気が付かなかった。

話を戻すが、人によっては、こう言うかもしれない。
「じゃあ、遊ばなければいいじゃない。他にも娯楽なり、 メディアなりあるじゃない」

果たして、その様に言い切れるだろうか?
デジタルメディアは、既存のメディアと大きく違い、 既存のメディアでは代えられない、利便性や、革新性がある。 そして、将来多くのメディアが、 このデジタルメディアに席巻されたとき、 ハンディキャップを持つ人たちにとって、メディアのない世界に なってしまうのではないか?

これらは杞憂かもしれないが、こういった未来を作らないためにも、 身近なところから気遣っていくべきだろう。