実践理性批判

君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。(P.72)

そったらこといわれても、僕には難しいと思います。なぜなら言っている意味がやはりよく飲み込めないから。
カントの名著の名訳。他にも、カント本はこのコーナーで何冊か紹介したけど、まともに読みこなせていません。当然これもそう。まじめに勉強しなおさんといかんなぁ。

哲学は哲学的知識とは異なる、哲学は学習せられ得る学ではなくて、我々はこれによってせいぜい物を哲学的に考えることを学び得るだけである。(P.5、改訳版について)

という、訳者の主張は分かるんだけど、読みこなさず適当に夢想したんじゃぁ、「考えた」とはいえないものね。そういう意味では子守をしているおっさんとしては

子供達に、高邁でもっぱら功績を尊重する高尚な行為を手本として示し、このような行為に対する感激を少年達の心に吹き込もうとする積りなら、それは所期の目的にまったく反する遣り方である。少年達は、極く普通の義務を守ることにも、それどころか義務を正しく判定することにすら未熟であるから、こういう教育方針は彼等をいち早く空想家に仕立てるようなものである。(P.308)

というのは、納得行く部分はあるものの、ある程度(小学生くらいかな)大きくなっていれば、高尚な行為を手本としたほうがいいよね。

しかしまた人間はもっと高い使命を果たすためにも、理性を具えているのである。(P.134)

ということを知って行為しないとまずいと思うしね。そして

義務よ!君の崇高にして偉大なる名よ。この名を帯びる君は、媚び諂って諸人に好かれるものを何一つ持合わせていないのに、ひたすら服従を要求する。(P.179)

というように義務に適切に服する人間になるためにも、その行動を構成する経験

経験は、感覚だけから作られているのではなくて、判断もまた経験の構成要素なのである。(P.38)

と、その原理

かかる幸福を意志の最高の規定根拠とするところの原理が、取りも直さず自愛の原理である。(P.54)

は理解して置いて欲しいし。で、カントの神の存在証明を都合よく持ち出すのではなく、

或る物の実在を想定することは、決して義務ではないからである。(P.252)

であって、考えることを適当にあきらめるための神は否定して欲しい。それが本当に考える葦としての人間なんだろうし。

自然の仕組やこれらの仕組における変化を説明する場合に、万物の創始者としての神に救いを求めるのは、少なくとも自然学的説明ではなくて、我々の哲学が終りを告げたということの告白にほかならない。(P.276)