精神分析

個人と個人、ないし個人と社会の関係こそ一次的な障害の場所である。(P.296)

そうなんだよね。結局メンタルな病って本人いじっても基本的には治らないんだとおもう。自己経験から思うに。
精神分析の大家が書いた一般向け解説書と大学教養課程の教科書の間ぐらいのレベルの本。それなりに読んでいて面白い。まぁ、自分自身が一回この手の病をやっているので、なお真剣に学ぶわけだし。でも、今でもこの傾向はあるので、

(うつ病患者が悲しみ責めるのは)けっして何かを現実に失うところがあって悲しむのではなく、また現実に落度があって自らを責めるのでもない。したがってこれを慰めるすべはなく、はたの者はただ了解に苦しむというのがこの病気の特徴である。(P.235)

はたのものは了解に苦しんでたんだろうなと思う。それにしても、

大人になっていったん現実ととっ組むようになったあとは、否定は原則として退却を意味する。(P.132)
退行の結果が症状として比較的健全な人格から分離されうるときは神経症であるが、人格全体がおかされる場合はこれを精神病という。(P.200)

こういう、基礎知識は改めて確認してもなるほどと思う。ただ、

母親が精神的に成熟していないときは育児の重荷のみ強く感じられて、育児につきもののちょっとした不快にも強く反応しやすいのである。(P.87)
子どもは真に危険なものに対しては危険を感じないことが特徴的である。(P.214)

母親の役割が強調されていて、現代の親子関係の構成のからみから見てその分析は、現代でも適切なかなとか思うところはあったりもする。それにしても、

問題は、どの合理化が本能的欲求を否定せず、その抑圧を助けず、これをこじつけず、その欲求を欲求としてありのままみとめながら、しかもこれを最終の目標とすることなく、これをさらに大きい枠の中で位置づける事に成功してるかということなのである。(P.148)

そんなこといわれてもそんな都合のいい合理化なんか実生活にはほとんどないわけで。というか、そんな処世術は冷静に考えると精神分析なぞなくてもいいわけ。

夢は、無意識の精神を現出すると同時に、しかもこれを判じえないときはいつでも封じられた巻物であることになる。(P.169)

そういう意味では占いと一緒だわな。この辺がポパーに叩かれているように思う。だからこそ

精神分析が真に学問として大成するためには、どうしてもいま一度理性の殿堂で諸学によって鍛えられる必要があるであろう。(P.310)

ということなのだ。

精神分析をやるということは精神分析を信ずるということではないのだ。(P.9)