条例のある街―障害のある人もない人も暮らしやすい時代に

「理解者の少ないところで、批判にさらされながらやるのもいい」(P.92)

こんな勇気はなかなか持てません。
個人的には、中学校の公民の教科書に指定したいぐらいの一冊。初めて、友人に紹介してもらい読んだ衝撃は何度読んでも失せません。ただし、あくまで障害者問題の本ではなく、地方自治の本としてです。地方自治の本質を抉り出すのに、障害者の条例の策定プロセスを使っている、と思って読むとよいと思います。
現代の公民のあるべき姿がこの一冊で学べると思う。当然であるけれど、

政策立案段階から官と民が協働で、という千葉県の福祉政策づくりの原則は、私たち「民」の側にも立法責任をしっかり果たさなければならないことを求めている。いつまでも塀の外側から理想論を唱え、行政を批判して溜飲を下げているような態度はもはや許されないのだ。(P.59)

というのは、あらゆる場面で常識なのだ。もっと言うと今までだってそうだったはずだ。というか、これこそが公民という意識の基本のはずだ。にもかかわらず、みなこの意識を忘れてきたつけが今の日本の地方の疲弊の原因だと思う。
そしてこういう意識を持って、地域の問題を一方的な意識ではなく

差別される側の痛みを知ってもらうためには、差別する側の論理を知らねばならない。(P.20)
私たちが目指しているのは、差別した人から賠償金を取ることでもなければ、差別した人に刑罰を課すことでもなく、互いに理解し合い、だれにとっても暮らしやすい地域社会を作ることだ。(P.109)

という意識で、相互理解を求めながら、公益の動かし方を考えるべきなのだ。公益を民主的に動かすという観点で見たときに

どんなに素晴らしい条例案も、県議会で可決されなければ施行されない。(P.79)
私たち民間の研究会は条例案をつくることはできても、条例案を議会に提出してからは、議場での議論にゆだねるしかない。(P.81)

ここは忘れてはいけない。そのうえ、公益の影響や合意を急いでもいけない

「千葉は変わってきた。一センチづつ確実に変わっている。地元でずっと生きているとわかるのよ」(P.112)

こういう姿勢が大事だ。ただ、

「東京とか大阪とか宮城とか、そういうところがつくって、そのあとで最後につくればいいじゃないか」(P.142)

こんな意識は持ってはいけない。地域は地域でオリジナルなのだ。それにしても、

自分たちの生活は自分たちで決め、自分たちで守る、というのはきれいごとではできない。これからのあるべき地方自治の最前線に、私たちは立っているのだ、という幸せをかみしめねばなるまい。(P.134)

といわれても、自分の住んでいない地域でこういう作業をお手伝いしてみると、なんだかさびしい気がします。