実在論と理性

比較は、共約可能なものがいくつかあって初めて成立する。(P.237、哲学者と人間知性)

そりゃそうだ。クーン主義者はそもそも実は理論間に比較はない、とでも言い張るのだろうか。
それにしても院生のときに結構関心を持ってこの人の論文は読んだ気がする。科学実在主義者のうちの重要な一スタイルを築いたヒラリーパトナム。特に論理実証主義などに対しては結構鋭い突込みが入る。

何かをレモンたらしめるものは、範例のレモンと同じ本性を持つこと(たとえば同じDNAをもつこと)なのであって、前もって定められた基準の集合(黄色で、皮が厚くて、酸っぱい味をした、等々の)を充足することではない。(P.132、指示と真理)

プロパティの集合がモノの本質ではなく、本質の結果がプロパティの集合というわけだ。まぁ当たり前ではある気はするが、ちゃんと言おうとするとそれはそれで難しかったりするわけで。現代の実在主義者の主張を追っかけると

実在論者にとっては、もちろん、こうした集合S(観察可能な事物)は存在しなくてはならない。それは、たとえ世界と人間の感覚器官についてわれわれのもつ知識では、この集合を現在われわれが定義することは不可能であるにしても、そうである。(P.38、モデルと実在)

これはいいとしよう。定義は自由なわけだし、でもね

世界がどのようにあるのかを理論が独立に言うことができないのならば、理論を世界についての記述と言ったところで空虚なのである。(P.89、同値性)
数学的対象の存在を主張している文は、真ではありうるが、その真理性は実質のない真理性なのである。というのも、そのような文は、いかなる「情報」をも伝えていないからである。(P.207、規約)

この辺はどうかな、要検討なようなきがする。理論や理論を記述する人間の存在も含めて世界なわけなんだし、数学的対象も素朴な数の概念なんかは、情報の定義次第ではあるけどそれも十分な情報であるように思う。
とにもかくにも、まだまだ論じていく価値のあるジャンルということか。

今から思えば、今世紀の希望や信念は、賞賛に値するものであるとともに素朴なものであった。(P.215、規約、ハクスタブルの言葉)